2023年春、ミヤコホテルをめぐる旅〜ウェスティン都ホテル京都と大阪マリオット都ホテル宿泊記

東山三十六峰のひとつに数えられる華頂山は、別名花鳥山ともいい、古くは桓武天皇が平安京の造営のために将軍塚を築いた故事が伝わる「みやこ」としての京都のはじまりの場所と言えるでしょう。そんな由緒正しい土地に19世紀の終わり頃に保養地が築かれ、世紀末の1900年に現在まで続く京都を代表するホテルが誕生します。都ホテル…東京の帝国ホテルと並び迎賓館の役割を担う日本を代表する名門ホテルです。100年を超える歴史を背負いながら、2014年には大阪の最高層ビルあべのハルカスに伝統の名前を冠した新しいホテルを開業します。外資系ホテルチェーンと提携しながらも、京都と大阪の都ホテルには古き良き時代を今に伝える独特の雰囲気が流れているように思うのです。

今回はその歴史や雰囲気に触れながら、ふたつのホテルをめぐる旅にでかけましょう。

雨の東京を出発して、静岡も名古屋もずっとどんよりとした天気のままに目的地の京都に到着。ここ数年では稀に見るほど大混雑している巨大な京都駅を抜けて、タクシーに乗り込みます。祇園を抜けるとどこかそうした喧騒から少し離れたような気持ちになってきました。それとほぼ同じ頃に小雨もついに上がって、少し周辺が明るくなってきたように思いました。堂々たるスペースを持つ車寄せは、ラグジュアリーホテルの高層化が進む現代日本とは対照的な余裕のあるつくり。玄関からしてこのホテルが京都の迎賓館であることを感じさせられます。もちろんデザイン的には「昭和」を感じさせられますが、その雰囲気を残しているところに私はむしろ価値を見出したいと思うのです。

なお入口の「THE WESTIN MIYAKO」のサインの下には、伝統ある「ミヤコホテル」の名前が記された重厚の石造りの柱がありました。ほとんど満開の桜が咲き誇るさまに、本格的な春の到来を実感させられます。

外観からも想定されるように建物自体は決して新しいものではありません。ロビーは現代的な雰囲気へと改装されていますが、そこかしこに昭和のホテル建築の面影(例えば、是非ともロビーから2階への螺旋階段などを見ていただきたい)をとどめていました。

高度経済成長期。所得倍増計画。戦前の重厚なホテル建築に対して、すっきりとしたモダニズム建築が数多く生まれ始めた時代。著名な日系ホテルも数多く1960年代に開業します。ホテルニューオータニ、東京プリンスホテル、リーガロイヤル(当時は大阪ロイヤルホテル)などは現在でも建物を残していますし、パレスホテルやキャピトル東急なども改築前はそうでした。いずれもまさに昭和の名建築であると言えるような立派なものですが、こうした直線的なモダニズムに独自の幻想的な世界観を描き出した天才がいました。

1891年(明治25年)生まれの村野藤吾。優れた才能を秘めながら遅咲きとされるその人生にはおおいに勇気づけられるような気がします。そもそも大学を卒業したのは27歳のとき。渡辺節の元で設計に携わりながら、38歳のときに独立。1929年のことでした。それは日中戦争から第二次世界大戦という破壊の時代の中で村野は壮年期を過ごすことになり、多くの建築設計に携わることもない日々を送ります。実際に1950年代以前の村野の設計した建築はあまり現存していません。しかし戦後は1951年以来設計に携わり続けた「志摩観光ホテル」を皮切りに、次々とその芸術的な傑作を世に送り出します。誤解を恐れずに言えば、村野は一般に定年退職をする60歳を過ぎてから建築家としての本格的な活躍が始まったのでした。

村野の描き出す世界観は独特です。全体としてはモダニズムのすっきりとした文法のなかにメルヘンチックな趣があり、西洋的とも東洋的ともいいきれない曖昧な世界が広がります。おそらくそれは師の代表作である日生劇場やホテル建築に一歩でも足を踏み入れた瞬間に感じ取れることと思います。

村野はここ京都の迎賓館の戦後の転換点に立会い、1959年竣工の佳水園そして1960年竣工の本館を設計しました。69歳のときのことでした。ちなみに先述の「志摩観光ホテル」とこの「都ホテル」は20世紀の最後に思いがけない共通点が生まれることになりますが、その話はひとまずあとで。

すっかり村野藤吾の話に熱くなってしまいました。ひとまずチェックインをラウンジにて。私はここから眺める景色がなんとなく好きです。少し先には平安神宮が見渡せて、京都の街並みや取り囲む山々の美しさが魅力です。先日滞在したパークハイアット京都のようにわかりやすく伝統的な建造物が保全されているわけでもないのですが、生活感のなかに長大なる都市の歴史が編み込まれている様子にむしろこの古都の底知れない力を感じさせられるのです。

古い時代を感じさせられる「ホテルマン」が、慇懃な態度かつ非常に的確なチェックインの手続きと案内をしてくれましたが、その横で新しい時代の「ホテルスタッフ」が若さを炸裂させるような笑顔で私に声をかけてくれたことがとても印象的でした。こういうところに老舗らしい奥深い魅力があると思うのです。伝統ある都ホテルが「ウェスティン都ホテル」へとリブランドしたのは2002年のことですが、業務提携は1966年から行っていたようです。

日本で言えばウェスティン横浜のような新規開業の軽やかなラグジュアリーも好きですが、私はこのような「老舗系」ウェスティンホテルが大好きなのです。韓国ソウルのウェスティン朝鮮もまさに似たような雰囲気を感じましたし、ハワイ・ホノルルのモアナサーフライダーなどに立ち寄ったときにも同じ感覚を覚えました。これはあくまでも個人的な感覚ですが、伝統あるホテルの雰囲気とウェスティンブランドのもつ柔軟性が絶妙に合っているような気がするのです。それは客室についても言えるでしょう。

今回はホテルの西側に位置するジュニアスイートに滞在します。広いバルコニーが(そして手すりや屋根の構造が村野藤吾らしくて)なんだか嬉しい気持ちになる部屋です。私が感心するのは、ここまで徹底的に客室を綺麗にリノベーションしているということです。一般的にホテルを改装するときに壁紙や家具の交換はよく見られますが、水回りや間取りの変更は大規模な工期と予算のためにそこまで徹底されないことが多いように思います。しかしこの部屋で過ごしてみればすぐにわかるように、まったく古さゆえの不便は感じられず、むしろ下手な新規開業のホテルよりも快適ではないかとさえ思います。

コンテンポラリーなデザインのウェットエリアに機能的かつ利用者のことをよく考えられている(自動給湯機能や椅子や十分な水圧のシャワー…他に何を望みましょう)独立式のバスルーム。スイートカテゴリーのためか、お馴染みのホワイトティーシリーズに加えてSOTHYSのバスアメニティーも用意されていたところも評価できます。リビングルームのデスクも使いやすく、ベッドはもちろんヘブンリー。置いてあるアイテムも最近できたウェスティンと遜色なく洒落ています。しかしベースとしての1960年代を感じ取ろうと思えば随所に感じ取ることができる。つまり、新旧が巧みに融合されて、居心地の良さと落ち着きと懐かしさが共存している…褒め過ぎかもしれませんが、古い建物を大切にしながら現代的な快適性を徹底しようとする老舗の取り組みと心意気に対して熱烈な拍手を送りたいと思うのです。

こうしてひとり「ミヤコホテル」を想う夜を過ごして、早朝に目を覚ましたら近くにある蹴上のインクラインの桜が満開であることを思い出して、少し散歩してみることにしたのでした。

京都の近代化の推進の原動力となった琵琶湖疏水。禁門の変にはじまる幕末の混乱。明治維新。人口と産業の面で衰退した千年の都に水と電気をもたらしたのがこの灌漑事業でした。インクラインは京都と琵琶湖畔の大津をむすぶ船を通行させるための鉄路。なんの偶然か、村野藤吾の誕生した1891年に開通して、師の設計した都ホテル本館の完成した1960年にその稼働が停止しています。現在では桜が植えられていてその旧線の儚さと響き合う独特の美しさがあります。おそらくもう少し日が高くなれば多くの人が訪れるのでしょうが、朝の6時台にはさすがに静かな春のひとときでした。

ミヤコホテルと桜とを眺めながら、私はある俳句を思い出したのです。

けふよりの 妻(め)と来て泊(はつ)る 宵の春

この句よりはじまる連作の俳句が発表されたのは1934年のことでした。冒頭の句だけを読んでピンとくる方がどれほどいるのか不明ですが、日野草城の手によるこの作品は当時の俳句界に激しい論争を巻き起こすこととなります。10句からなる連作には「ミヤコホテル」と表題が付けられていました。

明治時代以降の俳句といえば、従来の「月並」を批判的にみた正岡子規が写生の手法を導入することで近代化を推し進めてきたものでした。そして子規に学び、美しい自然を客観的に捉えて緊張感とリズム感のある言葉で表現しようとしたのが高浜虚子の花鳥諷詠の俳句の根本理念でした。正岡子規門下である「ホトトギス」派はこの形式を固く守る強い勢力でもありました。そこから数多くの名作が生み出されたことは疑いありません。しかし日野草城の「ミヤコホテル」は激しい批判にさらされることになるのでした。

枕辺の 春の灯は 妻が消し

薔薇にほふ はじめての夜の しらみつつ

うららかな 朝の焼麵麭(トースト) はづかしく

冒頭の句はだんだんと都ホテルの新婚初夜のエロティシズムの世界へと進んでいきます。現在の基準でみたら随分と「隠された」表現に思われますが、昭和9年においては前衛的すぎたのでしょう。かくして花鳥風月の写実を旨とする高浜虚子や中村草田男らによって、日野草城によるこの連作の俳句は批判されます。他方で文壇で活躍していた室生犀星はこれを「俳句は老人文学ではない」として、その芸術性と創造性を高く評価したことによって「ミヤコホテル」論争が巻き起こったのでした。

その論争の終着点についてはここでは触れませんが、ひとつだけ述べておきたいのは、じつはこの日野草城による「ミヤコホテル」は事実に基づくものではなく、完全なるフィクションであったこと。つまり妄想が生み出した俳句だったのです。もちろん都ホテルは当時から実在しましたが、それを題材にしてここまで世界を広げていくその構想力の高さには惹かれるものがあります。俳壇において圧倒的な存在として君臨した高浜虚子の写実性(花鳥諷詠)に対して、自らの想像力をもって日野草城が描き出したホテルの位置する場所が「華頂山(花鳥山)」であるのは単なる偶然でしょうか…?

私は残念ながらその方面については疎いので真相はわかりませんが、そうであったならばと想像する自由のためにも真相を知らないでいたい気もします。

湯上がりの 素顔したしも 春の昼

華頂の名前は時代を超えてウェスティンと結びついたこのホテルのスパにも受け継がれています。もし日野草城が妻と現代のこの地を訪ねてみたら、湯上がりの妻とのひとときをいかなる言葉で綴るのでしょうか。私はひとりそんなことを思いながらひとりのホテルの屋上庭園に上がってみました。

華頂の山にも春は訪れて、そこかしこに淡い色の花が開いていました。京都の朝に私もひとり。最後に再び「ミヤコホテル」の最後の部分の俳句を反芻します。

永き日や 相触れし手は 触れしまま

うしなひし ものをおもえり 花ぐもり 

それはとてもとても長い空白のように、お互いに触れることのできなかった手についに触れて、そのまま永い日を共に手に触れたまま過ごせるような瑞々しい感性。果たしてそんな感性を再び持つことができるのだろうか…「失ってしまったものを想う」ような「花曇り」の空の下。私は90年前に生み出された創造的な俳句の言葉を宙に浮かべて、そのまま憧憬と共感の混ざった沈黙の時間を過ごしていたのでした。

さて随分と感傷的な気分だったのかといえばそういうわけではありませんが、ホテルの話題からは少し距離が生じてしまったようです。屋上庭園からの帰り道。村野藤吾の傑作へと至る道まで歩みを進めました。ウェスティン都ホテル京都が誇る佳水園。独自のモダニズム建築を生み出した村野藤吾は同時に伝統的な日本建築をダイナミックに再解釈したことでも知られています。師の傑作を見てみたい願望に駆られながらも、今回はここまでで留めておきましょう。またいずれこの場所に泊まるときにその魅力にどっぷりとつかって、それを私なりの言葉で書き綴るそのときまで。

村野藤吾と日野草城という個性的な人物に触れましたが、考えてみれば、ふたりとも変わりゆく時代に生きるなかで自らの領域(建築と俳句)においては、ある意味で想像力ゆたかな異端者でした。同時代の著名なモダニズム建築家が、西洋人の教えを受けたり海外留学を経験するなかで、村野はまったく自らの想像力で和洋折衷を構想しました。日野は俳壇から批判されつつも写実ではない想像力で俳句の芸術性に新しい道を開きました。

このホテルは、古さのなかに前衛性があり、新しさのなかに懐かしさの宿る。そんなホテルの雰囲気と個性的なふたりの逸話はよく響き合うような気がするのです。

さて、都ホテルの話をもう少し続けます。

私はそのまま次の用事を済ませるために大阪に向かうことにしました。しかしその用事のことは置いておくとして、ここに泊まろうというある種の必然性をもった予約を入れておいたホテルで次の夜を超えることにしていたのです。

京都をあとにした私は在来線の特急はるかで大阪の天王寺まで辿り着きました。つい最近開業したばかりの大阪駅のうめきた新エリアを横目に環状線を越えるのは鉄道好きとしてはなかなかに楽しいものでしたが、時間さえ合えば、今回は敢えて遠回りとなる近鉄で橿原神宮駅経由でここまで来たいと思っていました(…残念ながら用事の都合で実現出来ませんでした)

今日泊まるのは大阪マリオット都ホテル。近鉄の阿部野橋駅に直結した同鉄道の象徴的な複合ビル「あべのハルカス」の高層階に入居している比較的新しいホテルです。客室はシンプルそのもの。前日がジュニアスイートだったこともあって、やや手狭な印象がありましたが、ウェットエリアもベッドルームも十分に機能的であり(さすがは都ホテル!)快適に過ごすことができました。なによりも印象的なのはこの部屋のフルハイトウインドウでしょう。大阪のみならず2023年現在では日本で最も高いビルから眺める大阪の街のパノラマは圧巻です。ホテルで感じる天空感としては他の追随を許さないでしょう。それほどにこの景色は素晴らしい。

さて私がなぜ近鉄でここまで来たかったのか。

それは「都ホテル」と「村野藤吾」をこの鉄道会社が思いがけず結びつけているからなのです。先に村野藤吾の設計した建築のほとんどは戦後に偏っていると言いましたが、1940年の紀元二千六百年式典に合わせて建造された橿原神宮駅の駅舎はいくつかの例外のひとつです。巨大な天井を戴く独創的な日本的モダニズム建築はまさに村野らしい解釈。この駅を有する近鉄の正式名称は近畿日本鉄道。社名に入れられた日本の名前にも象徴されるようなJRを除く私鉄では日本最大の路線網をもつ会社です。

太平洋戦争終結直後の1946年に伊勢志摩国立公園が成立しました。近鉄は戦前から伊勢志摩にまで路線網を伸ばしていましたが、戦後の混乱のなかで当初は観光開発を進める余力はありませんでした。しかし以前より真珠養殖で知られた地を訪ねる進駐軍の観光需要が高まるなかで、志摩半島にホテルを建設することとなり、近鉄が中心となり、三重県庁と三重交通と共に志摩観光ホテルを開業することとなりました。このときホテルの設計を任されたのが村野藤吾でした。

志摩観光ホテルは1951年に開業しますが、その後も村野の設計により増築を重ね、伊勢志摩を代表するホテルへと成長します。かくして三重県の迎賓館となりサミットの際に利用されたほか、皇族の利用する宮内庁御用達のホテルとして知られるようになります。

さてこうしてみると昨日までの都ホテルとの共通点を見出すことができます。どちらも、迎賓館、宮内庁御用達、そして村野藤吾の設計…そしてさらに時計の針を進めて20世紀の終わり。2000年の3月に近鉄グループが都ホテルを買収したことによって、京都の都ホテルと志摩観光ホテルは同じグループのホテルとなりました。両方のホテルはその文脈は異なるのに、どこか似たような雰囲気があります。それは単なるグループホテルであるということ以上の歴史的経緯によるのかもしれません。

さて少々遠回りをしましたが、大阪のあべのハルカスに戻ってきましょう。近鉄のグループは老舗の都ホテルに新しい風を吹き込むべくウェスティンを呼び寄せます。それ以降もスターウッド(現在のマリオットの母体のひとつ)との提携を続けて、東京と大阪のふたつの都ホテルにシェラトンの風を送り込んでいきました。そして2014年に近鉄の新しいシンボルといえるあべのハルカスに入居する新しいホテルに都ホテルの名前を与え、マリオットと提携させたのでした。

そんな意味で、ここはふたつの迎賓館的老舗ホテルの遺伝子を引き継ぐ新世代のホテル。両者に比べると現代的な軽快さが鼻につくところがなくはないのですが、それでも古き良きふたつのホテルを受け継ぐ雰囲気も随所に感じさせられます。

所用を済ませてホテルに戻ってくると、北側に面した大きな窓の向こうに輝く大阪の夜。さて今宵もひとり明かりを落としてベッドに横になりましょう。なんだか夜間飛行みたい。そういえば今夜もお世話になった人とひとつの別れ。思いがけないところで会うかもしれないし、もう二度と会えないかもしれない。いずれにしてもその先には未知の明日がつながっている…

京都にいたときには感じなかったこの孤独にも陶酔にも似たようなひとりの感覚は、林立するビルをすべて見下ろすような場所にいるからなのか、それとも移ろい行く季節のなかで過ぎ去っていくものへの諦めゆえなのか、ああでもない、こうでもない、と考えているうちに眠気が襲ってきました。まだ前日のことなのになぜか京都に滞在していた時間が遠い昔のような気がしてきて、またあそこに戻りたい気持ちが芽生えてきました。

いつまでたっても小さな無数の光が窓の外にきらめいていました。

さて、そろそろふたつの「都ホテル」をめぐる旅を終えることにしましょう。

曇天の大坂を出発。今度こそは近鉄特急で名古屋経由で東京へ。チェックアウト。広くて開放的なロビーにはチェックインを待つ人がたくさん。思えば今日は春の週末でした。

1890年創業の都ホテル。1891年生まれの村野藤吾。130年の時を超えて、その両者の結びついた近鉄の新しい都ホテルのいまを知る滞在でした。出会いと別れの季節も後半に入り、各地で新生活の声が聞こえてくる4月の最初の日に私は少し前の滞在を振り返っています。改めてホテルとは、特に長い歴史をもつようになれば、無数の出会いと別れを積み重ね、記憶が集積された特別な場所になっていくところだと思うのです。

この大阪マリオット都ホテルもそういう場所になるのでしょうか。

ホテルをあとにするとき、これからあべのハルカスの展望台を見に行こうとする若いカップルの宿泊客がエレベーターホールにいました。無論ふたりは「相触れし手は触れしまま」に、ふたりの世界を生きていました。日野草城の生きた時代とは価値観も街並みも大きく変わりました。いまの超高層の「ミヤコホテル」を眺めたら果たしてどのような想像力を巡らせることでしょう…そして私は。やはり空間でも人的なつながりでも、歴史というものは人の心に深く訴え、そこからなにかを喚起する力へと結びついていくように思われるのです。そしてそんな歴史の力を過小に見積もらないホテルというのはいつの時代も魅力的です。

失いしものを想いし…私たちは、いや、私はなにを失ったのでしょうか。この投げかけはおそらく誤読かもしれません。でもそれを認識しながらあえて誤読する自由があってもいいと思います。失ったものとこれから得ていくもの。そんなことを頭に浮かべ、そして出会うために、私は再び都ホテルを訪れてみたいと思います。

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