2022年5月 パークハイアット東京宿泊記 プレジデンシャルスイート

脱力感のある音楽を聴きながら、私の車は新宿の摩天楼に吸い寄せられていきました。何度来ても未知の場所に迷い込んでしまったかのようなホテルの玄関。ダイアモンドのような天窓とシルバーの彫刻に迎えられて、私は今日もこのホテルにチェックイン。パークハイアット東京。私が世界で最も好きなホテルの最も特別な部屋で今日は短い休暇を過ごすことにしましょう。

長い長い廊下を通って、緑の床のエレベーターで51階まで。突き当たりの重たい黒い観音開きの扉を開いたところがプレジデンシャルスイート。この部屋に泊まるのは特別な日。想いを寄せながら…チェックインは絵画と本に囲まれた書斎で簡単にサインをするだけ。スタッフが部屋を出ていくと、広いリビングには静けさが訪れます。ホテル全体が世間から隔絶された雰囲気であるのに、この部屋にいると、とりわけ浮世離れしている心地にさせられます。

今日は久々にピアノでも弾いてみようか…ショパンよりもドビュッシーが似合うような雰囲気。しかし私には弾けません。頭の中にミケランジェリの演奏によるLa cathédrale engloutie。眼下にはひたすらに忙しく走り回る自動車。あまりにも慣れ親しんだような気がしていて、あまりにも遠いこの新宿。そうですね…以前、ここに滞在したときよりも、その感覚は強くなったような気がします。この空間にいると東京のまんなかにいて東京をとても遠くに感じるのです。

このホテルから東京タワーが見えなくなってからもうどれくらいの時間が経ったでしょうか。冬の乾いた風が遠い昔に感じられるように、過ぎ去った日々を思い起こします。そしていま見ているこの景色さえもまた過去のものになっていくのだろう。パークハイアット東京はタイムレス。それだけに外の変化に対してついつい敏感になるのかもしれませんね。このホテルを舞台にした映画「Lost in Translation」の公開からもうすぐ20年。このホテルでは同作品のDVDを貸し出しているので、部屋で見ることができるのですが、ホテルを取り巻く情景や人々のファッションなどの雰囲気が大きく変化しているのに、このホテルだけは変わっていません。

プレジデンシャルスイートのなかでもっとも好きな場所はどこと言われれば、私は間違いなくベッドルームに付随しているサンルームを挙げるでしょう。最も東側に位置しているこの部屋には朝日が綺麗に差し込んでくるのです。そして天井には一面にミラーが貼られていて、現実世界の摩天楼がそこに反転して映っているという不思議な空間。マシュマロのようなロングソファに腰掛けて、上を眺めているだけでも時間が経つのを忘れることができるのです。

こんな日はフランス料理に限ります。首都高を走らせて丸の内。メニューをまったく見せないユニークなモダンフレンチのセザンで夕食をとって、再びこのサンルームに戻ってきました。まさにここが星空に手が届くスイートルーム。昼とはまた様相の異なる美しい部屋です。ゆったりとしたジャズでもかけながら、キラキラとひかる街並みをしばらく眺めることにしましょう。

大理石のジャクジーにお湯を張って、観葉植物の向こうの窓には青白い東京の夜。それは春から初夏への移り変わりに特有のぼんやりとした美しさ。ビルのライトは点となり、ヘッドライトとテールライトが線となる。その光線の交わるところ。夜はゆっくりと更けていきました。

よく冷えたミネラルウォーターを飲んで、もう少し夜のサンルームでくつろぎます。パークハイアット東京といえば緑色の印象がありますが、この寝室は、深い緑から鮮やかな黄緑色に至るまで複数の緑色が織りなすグラデーションの美しさが特に際立つ空間でもあります。ホテルの部屋を考えるとき、まずは落ち着く色合いとして無難なグレージュ、あるいはライフスタイルホテルに代表されるような鮮やかさで彩る場合もありますが、同系色でまとめた空間というのは上品かつ美しいものです。それがましてや緑色というのはなかなか斬新な色使いだと思います。

今夜はうまく眠れるだろうか…私はホテルに泊まる夜にはいつもそんなことを考えてしまいますが、それはこの日は杞憂でした。淡いライトグリーンに包まれて、煌々とした夜に落ちるように眠ってしまっていたのでした。目が覚めて書斎から眺める東京の朝。午後には曇りになるというけれど、このときはまだ鮮やかな青空が広がっていたのでした。いつもだったらジランドールでペストリーとコーヒーの朝食をしたいと思うところですが、今日はなぜか和食の気分で、部屋のダイニングルームで湯豆腐と焼き魚をいただいたのでした。

せっかくの広い部屋ですが、午後には仕事で横浜まで向かわなければなりません。ひとときゆったりと過ごしたらチェックアウトしましょう。私は午前中のピークラウンジが好きなのですが、それは人の気配がないから、いや、これから人がたくさんくるという「活気への予感」がなんとなく私を奮い立たせてくれるからなのかしれません。今日もまだ静かなラウンジには静かな5月の太陽が降り注いでいました。心はなんだか軽い心地がしたのでした。

さて、そろそろ…スタッフに手を振って、預けておいた車を走らせます。また来よう。このホテルにくると必ず言ういつもの言葉をつぶやきながら。

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