2022年2月 セントレジスホテル大阪宿泊記

まだ車も少ない東京の薄明には有明の月が見えていました。ぼんやりと白さがまして明るくなってくる時間帯には私たちは富士山のふもとを通過して、静岡県を西へ西へと進んでいました。この調子で走っていけば昼前には大阪につけそうだ。そんなことをぼんやりと考えながら、鈴鹿山脈を通過する頃には雪が降ってきました。カモシカがいるかもしれない。御在所山。聞いたことはあっても見たことのない地名を横目に新名神高速道路を進みます。滋賀県を超えて、京都府を超えて、大阪に着いたころには空には太陽がくっきりとその存在を主張していました。

ビルの間をうねるように走る環状線の高架を降りて、東京とは異なる広い一方通行の道。ややクラシカルな趣のある天井の高い白い建物が見えてくると今日の滞在先はもうすぐです。

セントレジス大阪。この車寄せに自分の車で来てみたかった。そういうと大袈裟かもしれませんが、以前このホテルに滞在したときに、今度はこの重厚感あるエントランスのバレーサービスを利用してみたいとふと思ったのでした。あれはたしか3年前くらいでしょうか。

非常に丁寧な出迎えを受けます。甘く優しげな花の香り漂う空間を歩きながら、長いドライブを終えたあとのあたたかい言葉。ここは王道のラグジュアリーホテルだ。飛行機や新幹線で来ても、おそらくここまでの感慨は得られないだろう…徒歩ではないものの、自分の手足を動かして、旅してきて、そうして目的地にたどり着いたときのこの気持ち。くせになってしまいそうです。スタッフに促されて上層階のフロントまでエレベーターに乗ります。

これだ、この感覚なんだ、まさに思い描いていた「時代を超越した優雅さのビジョンを実現した大都会の邸宅」がそこにはありました。ジョン・ジェイコブ・アスターがニューヨークに開いた名ホテルの数々…ウォルドルフ・アストリア、ニッカーボッカー、そしてセントレジス。その瀟洒な雰囲気にジャポニスム的な東洋趣味が合わさったこの空間。光が差し込む屋上の庭にはさりげない枯山水。階下から続く甘く上品な香りが漂う白亜の空間には、とても丁寧な言葉遣いと立ち居振る舞いのスタッフ。椅子に座ってチェックインを済ませると、私はすでに長旅の疲れを忘れかけていました。

ロビーは良い意味で広くありません。広くないからこそ邸宅のような落ち着きを感じさせてくれるのでしょう。同時に天井の高さと窓の大きさのために開放感も十分。同じく大阪で邸宅のような雰囲気を感じさせてくれるザ・リッツ・カールトンとは好対照だと思います。

まだ部屋の準備ができるまでには少し時間があったので、地上階にあるビストロ「ルドール」でしばらくお茶をすることにしました。大阪を代表する大通りの御堂筋には今日も車が行き交います。その様子を眺める天井の高いこの店の雰囲気はとても明るく、窓側の席で、大阪マダムらしい集団のささやかなパーティをしているようでした。ふと、その声に、ここが大阪であることに気付かされます。御堂筋にしてもこのホテルにしても、東京にはない雰囲気であって、やはりここは500kmほど離れたところにある大都市なのです。このビストロの席に座ること、それだけでも私たちに国内に確固として存在する異文化を印象付けるのに十分な体験なのでした。

それはそうとして、この店のエクレアは美味しい。さくっとした生地にしっとりとしたマスカルポーネとコーヒーの香りのティラミスエクレア。あたたかくてややスモーキーな余韻のアッサムティー。道路の向こうは青い風が吹いてきて、枯れ葉を大きな通りへと飛ばしていました。この異文化の地の冬を感じたくて、外を少し散策。そして部屋に戻ってきたときのあたたかさもまた印象的。

鍵を受け取って部屋に向かいます。奥にあるエレベーターまでエスコートしてくれるちょうど良い距離感がこのホテルらしさといえるでしょうか。部屋はゴールドとオリーブグリーンがアクセントになった光沢感のあるグレージュのインテリア。個人的にはとても明るく落ち着く雰囲気。窓側のカウチに腰掛けて外を眺めると、なぜか大阪の街が無国籍な大都市に見えました。

この部屋の西側にはビューバスが備えられており、明るい色合いと暗い色合いの大理石のコントラストによって高級感が際立って見えます。バスアメニティはルメードゥ。とりわけシャワージェルにはスクラブが入っており、香りと相まってとても爽快感のあるシャワータイムが実現します。

数日前はバレンタインデー。パートナーは私にDiptyqueの香りの良いハンドクリームをプレゼントしてくれました。しばらく前に手の乾燥がひどいんだ…と話していたことを覚えていてくれたようでとても嬉しい気持ちになりました。私は同じくバレンタインデーのささやかな贈り物として、ペニンシュラ東京のチョコレートを。プレゼントを贈る時は準備のときが楽しい。私はそう思うときがあります。今回もあれこれ考え、ひねりをきかせてロブションがいいか、それとも話題のパトリック・ロジェか…?そんな悩む時間が案外とても楽しいものです。彼女も同じように思っていてくれたら…そんな密かな想いを浮かべていました。

W大阪で食事を終えて、セントレジスに戻ってくると、バレーパーキングのスタッフに「おかえりなさいませ」と出迎えられます。旅先でこの言葉をかけられると、私はなんだかとても安心します。そして部屋のあたたかな雰囲気がその気持ちをいっそう際立たせていたように思うのです。モーツァルトのピアノソナタが部屋に流れていました。ソフトなタッチの演奏が華やかさと軽やかさを同居させ、この部屋から眺める大阪の夜のきらきらとしたビルの光と響き合うように見えました。眼下の大通りには相変わらず車の流れが途絶えません。甲賀の山を超えてきたときの荒々しい光景が嘘のような人の営みの賑やかさ…私は山や海の豊かさに憧れながらも、都会にしか住めない類の人間のような気がしてきます。

大阪の夜景を眺めながらバスタイムを。私はこの魅力的な大都市の小さな街角のひとつひとつをほとんど知らない。どこになにがあって、この道はどこにつながっていて…そういうことについてほとんど知らない。知らない場所がたくさんあるということは、しかしながら、訪ねるべき場所が無限にあるという豊かさなのだと思います。人はときに知ることに対して大きな価値を見出します。しかし知ってしまうことの切なさもまた裏返しのように存在していると思うのです。知らないままであれば、知らないままの豊かさがある。私たちが未知の場所に旅をするのは、そこで無垢な自分に出会うためなのかもしれません。ささやかなことですが、私は行ったことのないホテルに対して、出かける前に詳細な情報をあえて見ないようにしているのですが、それはそうした無知の喜びに自分自身を開いておきたいからなのだろうな…と、改めて思いました。

いや、思索的なバスタイムを長く過ごしていたわけではありません。お酒を飲めない私は、爽やかな泡をペリエに求め、すっきりとした香りのバスアメニティを高い水圧のシャワーで流して、頭が空っぽになってそのままベッドに横になってしまったのでした。

時間に正確なバトラーが朝一番でコーヒーを部屋まで届けてくれました。身支度を整えるまえの寝ぼけたような感覚が芳ばしい香りへの意識へと置き換えられていきます。ホテルには、朝寝坊したくなるようなところと、朝早く起きたくなるようなところがありますが、個人的にここは後者です。最近はディオールの化粧品で身支度を整えます。ピリッとした気分がより高まるような気がします。

朝食は極端に大きなデザインのシャンデリアが印象的なラベデュータで。フロントからの延長にある高い天井と上質な空間。かつて訪ねたときは陽の光も入らないくらい外が暗い中で、ブッフェ形式の朝食をいただいたような覚えがありましたが、今日はセットメニュー。大阪の朝の光景への想像力を窓の外に投げかけながら、部屋の中に流れるゆるやかな雰囲気に身を委ねていました。

種類豊富なパンと共にフレッシュジュースとサラダを。そしてこのホテルといえば、アスターベネディクトをやはり頂きたいものです。クラシカルなエッグベネディクトもありますが、スノークラブとパン・オ・レが基礎にあり、そこにたまごの豊かな風味と引き立てるオランデーズソース。満たされた気分になることは間違いありません。あたたかいコーヒーを淹れてもらって、優雅な朝の1時間。しばらく休んでから次の目的地を目指すことにしましょう。

次の目的地、とはいうものの、京都に行くことが決まっているだけで、どこかを観光しようという気持ちも特にありません。ドライブゆえの気軽さと当て所なさ。改めて部屋から見る大阪の街はとても開放的に見えました。再び御堂筋を少し歩いてからチェックアウト。

セントレジス大阪には夢がありました。それは最初にここを訪ねたときには気づくことができなかったものであり、いまもって、すべては解明されないもののようにも思えます。大阪の街に対する憧憬がそうさせるのか、それともこの街から切り離されて存在しているこのホテルに対して思うのか、あるいはこれはまた別のなんらかの体験なのか…少なくとも確かなことは、この優雅な空間に一歩足を踏み入れたときに私の心は高鳴っていたということです。 言葉はすべての気持ちを説明できる…なぜなら気持ちに先立って言葉があるからだ。そういう見方があることは理解しているつもりですが、同時に、この感覚を言葉にしないままにしておきたい想いも強くあります。

鍵を受け取って車を走らせる。チェックアウトしたにもかかわらず、なんだかそう言いたい気持ちになったのは再びここに戻ってくるという確信に似た想いからでしょうか。スタッフに見送られて、あんなに部屋から眺めていた御堂筋を今度は車で走っていきます。知らないビル、知らない店、知らない街角…まだまだ知らないままにしておきたい。知らないことを知りたいという探究心が私をまたこの場所に誘うことでしょう。そのときにまた車の鍵を預け、お気に入りのビューバスを備えた部屋へと戻る。そんな場所としてのセントレジス大阪に対する憧れを募らせながら、6車線の並木道を進みました。

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