年明けのムードもすっかり忘れつつある2月のはじめ。私は再びこの街を訪れました。去年の年末に急用のためにソウルに行くことになって、久しぶりにその手軽さを思い出して、すかさずまたホテルを予約してしまったのでした。日本から最も近い海外の大都市。その距離的な近さもさることながら、魅力的なホテルが数多くあることも、この地を何度も訪ねる理由として十分すぎるほどです。今回はもともとソウルにある個性的なハイアット系のホテルをふたりと訪ねたいと思っていたのですが、少し予定を変更して、釜山まで足を伸ばすことにしました。
海が見たかった。それも理由です。ソウル以外の冬景色もみたかった。それも理由です。しかし最大の理由は去年の年末に泊まった朝鮮ホテルの持つ独特の「老舗らしさ」に妙に惹かれて、ぜひその世界観に再び触れたいと思ったからです。それならばソウルのウェスティン朝鮮(チョースン)にそのまま泊まれば良いという向きもあるかもしれませんが、せっかくならば、他にも泊まってみたい。それになんとなくKTXにも乗ってみたかったので、急遽釜山まで往復することにしたのです。
ソウルに到着する時間が夕刻だったので、今日はこの街に泊まることにしましょう。
韓国語はほとんど話せないけれど、タクシー運転手と片言の会話をしながら空港から小1時間。息子が日本にいるとのことで、いろいろな写真を見せてくれました。異国に住む息子を想う母の言葉には、なにか言葉の壁を超えたあたたかいものを感じさせられます。言葉は言語の壁を超える。そんなことを思いながら、握手を交わして、短い交流のときを終えてタクシーを降りました。私は比較的話好きな方だと思いますが、こうした「通訳されない」会話もまた魅力があります。それはもしかしたら、言葉を介する以上に相手を理解しようという想いが強く作用するからなのかもしれません。
ビル全体を照らし出すイルミネーションが印象的なアロフトソウル明洞は、郵便局のすぐそばの非常に便利な場所にありました。店のイルミネーションに劣らないくらい明るい対応が印象的な若いフロントスタッフの女性は、チェックインを手際よく進めていました。
満面の笑顔で、高層階の部屋を用意しましたよ。そう言われて向かった部屋はブリージースイート。斜めのつくりをうまく活かした心地よい広さのスイートルームでした。私はこれまでに東京と大阪のアロフトしか泊まったことはありませんでしたが、あのカラフルでレトロフューチャーから想像すると随分と落ち着いた雰囲気です。ところどころにアロフトらしいポップな雰囲気が散りばめられていて、とても好ましく思いました。
そういえば”A Vision of W Hotels”という副題がついたホテルでした。このメリハリのつけかたは確かにWホテルらしさを感じられます(そしてそんなところがまた魅力的でもあります)
どこか適当に食事に行こうか…焼肉や鍋料理などの店はひとり利用をほとんど想定していないように思われるし、某有名なカルグクスの店は先日行ったし…そんなことを考えながら、とりあえず外を歩いてみることにしました。
真冬のソウルは極めて乾いた寒さ。しかし明洞のアジアの大都市らしいカオスな雰囲気は、視覚に聴覚に嗅覚に、多すぎるほどの情報を与え続けて、そんな寒さを忘れさせるには十分でした。結局、新しくできたらしいソルロンタンの店で、ソルロンタンではないものを食べて、ホテルに戻りました。明日の朝は割と早い。そろそろお風呂に入ることにしましょう。このスイートの評価点のひとつに、独立式のビューバスがついていることを挙げられます。カーテンを開くと、さっきまで歩いていた通りとそこを行き交う車のライトがよく見えました。
実のところ、アロフトにはそんなに大きな期待をしていませんでした。夜にソウルについて、翌朝の出発もまずまず早い。強いて言えば、利便性と少しばかりの「ひねり」が欲しくてこのホテルを選んだに過ぎなかったのです。しかし思い返してみれば、本当によくできた心地よいホテルでした。立地はもちろんですが、スタッフも感じよく、部屋もまったく文句なしに心地よい。ラグジュアリーホテルもそうですが、カジュアルなラインのホテルであってもこうして快適に泊まることができる。そして東京からも本当に気軽に訪ねることができる。これはますますこの街の他のホテルも色々と泊まってみたくなる欲求を刺激されてしまいます。
朝食を取ってすぐにホテルをチェックアウト。そのままソウル駅に向かいます。釜山行きのKTX。ホテルと同じくらい様々な乗り物好きな私は、わざわざ時刻表を調べて、在来線部分を多く通る便を指定して乗ることにしました。KTXでソウルから釜山まで向かう場合に、最短距離で結ぶタイプもあるのですが、在来線部分が多いとよりローカルな景色を眺められるという期待があったのです。真冬の雄大な川の流れ。枯れた山々と農村の雰囲気。そして3時間以上をかけて列車は釜山に到着しました。
なお直前に駅の売店で買ったチョコチップミルクのあまりの美味しさに帰りの KTXの乗車の際にも購入してしまったことも付しておきましょう。昔から鉄道に乗って、甘い飲み物を飲みながら車窓を眺めるのが好きなのです。
釜山駅は海のすぐ近くにあります。この近くには当地の名物の「テジクッパ」の名店が軒を連ねていたのですが、私は今回はパスしてそのままタクシーに乗り込みます。あまり知られていない場所に行きたい場合には行き先を告げるのに難儀しそうですが、老舗ホテルということもあって、特に住所なども見せることなく、ホテル名を告げるだけでそのまま車を走らせてくれました。なぜかときどき通訳アプリを使いながら、ところどころで観光案内をしてくれる、とても人懐こい雰囲気のおじさんドライバーでした。
このホテルは昔からこのあたりで一番良いホテルですよ!
にこにことそう語りながら玄関に車を横付けしました。そのまま荷物を下ろして、ホテルのスタッフに引き継いでくれました。ウェスティンチョースンへようこそ。若いスタッフがやや不慣れそうに英語で歓迎の言葉を伝えてくれました。ホテルに入るとピアノの生演奏が流れていて、奥の大きな窓越しに開放的なビーチの景色が広がっていました。
まだ部屋の準備ができていないのでどこかで1時間ほどお待ちいただけますか?
ちょっと前にソウルのウェスティンチョースン(朝鮮)に泊まったときにも感じたことなのですが、伝え方や案内の仕方がとても丁寧で、やはりここでも「老舗」を感じます。なんとなくこの丁寧さは東京の日系老舗ホテルとも似たような安心感をゲストに対して与えるもののように思います。
私は好ましい第一印象をホテルに対して持ちながら、しばらく周辺で時間を潰すことにしました。ホテルは釜山の街の東側にあるリゾート地、海雲台のビーチの端にあたる、冬柏島という江ノ島のような陸続きの島に位置しています。島の先端の方は遊歩道になっていましたが、私は反対側のビーチから冬の海を眺めていました。ソウルよりも温暖な釜山。たくさんの人が気持ちよさそうに晴天の空の下を歩いていました。振り返るとウェスティンチョースンの建物が見えました。
なんだろう、なぜか熱海とか伊豆あたりの砂浜沿いにある老舗ホテルみたい…ビーチから眺めているとそんな不思議な感覚になりました。冬柏島の松林の雰囲気や、その新しくもなく古すぎることもない絶妙な建物の古さがそうした印象を強化しているのかもしれません。ソウルにしても釜山にしても、ウェスティンはさほど建物自体は新しくありません。おそらくホテルに頻繁に泊まる人でなければ新しくて綺麗な建物を好む傾向が強いことでしょう。でも個人的にはそんな古さも悪くないと思うのです。
どこかで食事でもと思ったのですが、あまり遠くまで行くのも面倒になってきました。むしろこのホテルをもっと知りたい。そこでホテルの中の韓国料理店Sheobulに。時間帯のせいなのか他に客はいませんでした。ここでもまた若い女性スタッフふたりが付かず離れずの接客。
おすすめを聞いたところ、石焼海鮮ビビンパをぜひ、とのことでした。窓の外に見える海雲台ビーチを眺めていると、しばらくしてジューっという音と共に香ばしい匂いが漂ってきました。甘辛いタレを絡めて、混ぜて召し上がってくださいね。やや不慣れな英語で一生懸命に説明していました。いまでも十分だけれど、きっと言葉の壁がなかったら高い水準のホスピタリティを直接的に感じられたことでしょう。それは昨日考えていた「言語の壁を越える言葉」と裏腹なことに一瞬思われたのですが、むしろ(英語で不十分に)伝わるだけにより伝え合いたいもどかしさに結びついているのかもしれません。旅に出たときに、叶うことならば、もっと現地の言葉を使いたいものです。
さて新鮮な海鮮が手に入る釜山の街。鮑の食感と風味の豊かさに加えて、様々な海藻が醸し出す滋味深さや食感の楽しさがクセになるビビンパの味わいでした。デザートと共に出してくれたフルーツ茶もとても美味しく、売っているならば買っていきたいと思ったほどでした。残念ながら販売はしていないようでした…では、買う代わりに、またいつかきっと来ますね。そう言って店を出ました。
ロビーのカウンターの近くまで行くと、部屋の準備が整いました!と、先ほどチェックインを担当してくれたスタッフがすかさず声をかけてくれました。そうそう、こういうところが「老舗らしさ」のひとつだと思うのです。
今日の部屋はエグゼクティブパークスイート。残念ながらビーチビューではありませんが、冬柏島の対岸の超高層ビル群と、南側の海の両方が見えるコーナータイプのスイートです。インテリアはリノベーションされており、最近のウェスティンらしいすっきりとした雰囲気。なんとなくテイストは横浜のウェスティンにも似ているように思いました。
ウェットエリアはやや古さを感じさせられますが、随分と広い部屋です。どまんなかにバスタブがどっしりと置かれていて、やや小さなベイシンとやや小さなシャワールームがあるというアンバランスな作り。またやや中途半端なクローゼットのような空間もありました。あまりうまく手を付けられなかったのかもしれません。あるいはもともとなにか別の部屋だったところをスイートに改装したのかもしれません。詳細は結局分からずじまいでしたが、使用するにあたって特に不便はありませんでした。
ベッドルームからは海がよく見えます。というよりもシンプルに海しか見えません。リビングルームからは高層ビルが立ち並ぶ実に都会的な眺めなので、非常に対照的です。ソウルに比して全体に温暖なこの海雲台の海をそのままヘブンリーベッドに横になって眺めていたい気もしたのですが、このあとしばらく東京とつないでオンラインで会議をしなければなりません。釜山の繁華街にも出かけず、海雲台でビーチコーミングをするわけでもなく、ひたすらいつもの顔ぶれをパソコンの画面越しに眺めていました。それでも、この海と高層ビルの不思議なコントラストの景色がふとした瞬間に目に入るのは、なんとも贅沢な気がしました。
会議を終えるとすでに日没を過ぎていました。昼食が少し遅かったこともあり、まださほどお腹は空いていない。なんとなく再び海雲台のビーチを歩いてみることにしました。ホテルの前から眺めると、ゆるやかな曲線を描く砂浜の向こうに超高層のビルやイルミネーションが光っていて、なんとなく未来都市のような気がします。それはこのホテルの位置している冬柏島の長閑な雰囲気やホテルの良い意味で少しくたびれた雰囲気とはまったく異なっていて、なんだか自分が異次元の場所に泊まっているような錯覚がします。遠くに車のクラクションが聞こえ、すぐそばでは波の音が静かに響いていました。月の綺麗に見える夜でした。
翌朝早く目が覚めました。朝の7時近くなってもあたりはまだ真っ暗です。久しぶりにホテルのプールで泳ごうと思って、昨日昼食をとったSheobulの反対側にあるスパ・ジム・プール施設のあるエリアに向かいました。プールは最近リノベーションされたばかりとのことでとても綺麗でした。しばらく泳いでいると太陽が昇り、徐々に周辺は明るくなってきました。プールはこのホテルの一番南側の冬柏島の海に出ている部分に位置しています。冬なのにあたたかい海で泳いでいるかのような心地よい感覚を覚えます。昨晩あれほど煌びやかに光を投げていたビーチの向こうの高層ビルはいまは静まり返っていました。私はしばらくデイベットで呼吸を整えてから朝食に向かうことにしました。
私は再びソウルに戻ります。短い時間でしたが、老舗らしいホスピタリティと少しレトロな雰囲気に酔いしれることのできた素敵な滞在でした。チェックアウトの前に少しだけ時間に余裕ができたので、またホテルの目の前にある海岸に降りてみました。このすぐ近くにはホテル直営のカフェもあり、きっと夏場は多くの海水浴客で賑わうのでしょう。実はこのホテルのすぐ近くにお気に入りのパークハイアットもあるため、次に釜山に来るときは十中八九そちらに泊まることになるかと思いますが、それでもこの老舗ホテルから眺めるビーチがほかの季節にどのような姿を見せるのかも気になってきました。こうして私は、まだ行ったことがないけれど行ってみたいホテルに加えて、ぜひ行きたいホテルをまたひとつ増やしたのでした。タクシーは釜山駅に向けて大きな橋を駆け抜けて行きました。