逢坂山を越えて京都駅に降り立つとほのかに構内からお香のような匂いを感じます。相変わらずごった返している巨大なターミナル駅には、朝に尋常ならざる緊張を抱えながら出かけていって、ようやく長い1日を終えた、やや満足げな安堵の表情の新入社員や学生のいくつもの表情がありました。私は重たい鞄をかかえたままで山陰本線のホームに向かいました。今朝までいた東京の電車とは明らかに異なる車内の雰囲気があることは、わずかな乗車時間であっても十分に感じられるものです。
そうこうするあいだに快速電車はすっかりモダンな駅舎に生まれ変わった二条駅に到着。そこからほどなく歩くと今日の滞在先であるモクシー京都二条があります。
思い返せば、3年前に東京・錦糸町のモクシーに滞在したときのことを思い出しました。大きなリップマークのエントランスに度肝を抜かれる思いをしましたが、それに比べると控えめなエントランス。あのときは「良くも悪くも雑な」ホテルというイメージがありましたが、京都にひとりで滞在することになり、ふとあの明るい雰囲気を思い出し、最近開業したここに泊まってみたくなったのでした。
ホテルのフロントで恭しくペンを渡される、という常識的なチェックインはここモクシーにはありません。そう、部屋の鍵を渡してくれるのは、画期的なスタイルのスタッフ。髪の形も色も自由だし、ユニフォームも緩い雰囲気。ホスピタリティ溢れる満点の笑顔のキャプテンとスタッフ。そのホテルに対する印象の大きな決定打はチェックインにあると思うのですが、私はこのときにとても満ち足りた気持ちになりました。きっと良い滞在になるだろう。そういう確信を持てました。個人的にこういう直感は値段が高いホテルだからといって必ずしも持てるものではありません。そのホテルの雰囲気がなんとなく自分にフィットする。すると自然と愛着が湧いてくるのです。
今日はひとりで泊まるからなのかもしれませんが、積極的に話かけてくれるスタッフのあたたかさがとても嬉しく思えました。そしてロビーからして明るいこの雰囲気もその思いをさらに強めるのに大きく寄与したことは言うまでもありません。
部屋に入るとパステルカラーの壁とベッドの色合い。サングラスの舞妓やサイケデリックな京都タワーのアート。折りたたみ式のデスク。コンパクトで機能的な空間に視覚的な情報が詰め込まれた部屋。すっきりと快適なホテルよりも私は個性の強いホテルの方が好きなのだと改めて思います。部屋の狭さはまったく気にならず、なぜか様々なものに囲まれた安心感がある。静かな雰囲気が好きな方にはリラックスできない部屋かもしれませんが、私はやはり賑やかな場所の方が落ち着くようです。ベッドの硬さも心地よく、個人的には、アメニティの少なさやトイレの配置に対する疑問点などはあるものの、総じて部屋に対する満足度は高いです。
なんだかアップテンポな音楽を聴きたくなってきました。パークハイアット東京に泊まるとなにかしらジャズが聴きたくなるように、このホテルにいると私は明るいJ-POPを聴きたくなります。iPhoneでそれとなく検索して、音楽を流して、なんとなくぼんやりベッドで横になる。数年前ではおよそ考えられなかったホテルステイのスタイルがここにある。思い返せばちょっと前までは京都に外資系ホテルといえば、めぼしいところではハイアットリージェンシーくらいしかなかった(ウェスティンはいまもって個人的には「都ホテル」の印象が強い)のです。そういえばエースホテルも京都に。この都市は日本国内でもっとも興味深いホテルの集積地になってきたように思います。
ふと小腹が空いて、なにか食べようかと階下に降りて行きました。チェックインのときに挨拶がてら少し話をしたキャプテンが不案内な私の様子に気づいてすかさず声をかけてくれました。おすすめのモクテルを作ってもらいながら、なにか京都らしいものを食べようとうどんを食べることにしました。九条葱と極めて少量の湯葉がのったうどん。絶品とは言えませんが、小腹を満たすのにはちょうどよく、なによりもアップテンポな音楽のかかっているバーでこういうものをいただくギャップが不思議で楽しい気分になりました。
突き詰めて考えるほどのことではないかもしれませんが、ひとりで食事をしていると、ついあれこれと頭の中で自分のいま置かれている状況のことを考えてしまいがちです。仕事のこと、人間関係のこと、さまざまな悩みのこと…でも、このホテルの雰囲気のなかで、そういうことが少しぼやけます。おそらくこの街のホテルに泊まる観光客の割合は、他の日本の街の平均より多いはず。だからなんだかちょっと浮かれた気分があって、その気分は私の気分にも伝播するのでしょう。京都という日本的な落ち着いた雰囲気の街をベースにしたポップな雰囲気のなかで、そのような気分で過ごせることが潜在的にもつストレス発散の効果は少し強調しておきたいと思うところです。
明るいウェットエリア。バスタブはないし、リンスインシャンプーだし、ボディローションもない。かつてのモクシー体験によって私が学び得た知識のひとつは、このホテルに泊まるときはバスアメニティを持参すること。備え付けのアイテムではなく、持ってきたものでシャワータイムを堪能するというホテルステイにしては珍しい体験。勝手を知ればさほど不満なく受け入れられるものですね。もちろんホテルオリジナルのアメニティが欲しいような気もしますが、そこは割り切ってしまいましょう。
強い水圧のシャワーで洗い流して…再びベッドでのんびりする。部屋の雰囲気のせいか、ひとりで気兼ねなく滞在しているせいなのか、なんだかとても心が軽い気がしました。そんなわけで夜は更けていって気づいたら自然とベッドで眠っていました。
翌朝早く目がさめて、身支度を整えてから1階のバーカウンターへ。ワッフルをメインにした軽めの朝食もこのホテルらしいところでしょうか。夜のアップテンポの残り香をそこかしこに感じながら、朝のやや気だるくも清々しい矛盾した気分を熱いコーヒーで中和していく瞬間。体が本格的に起動していくような感覚を得て部屋に戻る頃には徐々に朝食を取りに来るゲストが増えてきていました。部屋に戻って少し書き物をしたらチェックアウトです。
時間に余裕があれば、醍醐寺の桜でも観に行けたらよかったのでしょうが、今日は二条駅のホームから青空の京都のなにものでもない満開の花を眺めるにとどめます。これから私は横浜経由で東京に戻るところ。新学期の学生たちでごったがえす電車に揺られて京都駅を目指し、新幹線に乗り換えます。この宿泊記を綴りながら、桜の季節がはるか昔のことのように思えてきました。今年はそれほどになんだか慌ただしく過ぎていった4月でした。
またしばらくして落ち着いた頃にふらりとこの街にきて、またモクシーに泊まって、今度はもう少しゆっくりこのあたりを歩いてみたい。そんな構想がぼんやり頭に浮かんできました。麗かな春の古都の風が吹いていました。