ホテルオークラ東京ペントハウスでの回想

私の祖父と私とは色々と対照的な性格だったと思います。私の祖父は良くも悪くも我が強く、酒も大好きで、無駄なものにはお金を出さない合理主義者でした。私は周囲の目や空気感を気にするし、酒は一滴も飲まず、また無駄なものに価値を見出す傾向にあります。

そんな祖父なのですが、なぜかホテルについては、妙な一致をすることがありました。

私は両親や兄弟のほかに、幼少の頃から祖父母と同居していました。私の祖父はさほどホテルに対してこだわりがあったわけではないのですが、よく私とホテルに出かけたものでした。思い返してみれば、祖母に「昼間っからお酒ばかり飲むんじゃありません!」と釘を刺されていたものだから、私を「だし」にして、休日の昼からレストランやバーで好きなビールを飲みに行きたかったのかもしれません。

特に私が運転免許を取ってからというもの、私が休日で家で暇をしていると、だいたい祖父が両手を使って、ハンドルを動かすポーズをしてアピールしてきます…そして「おい、ちょっとドライブ行こう!」と。なにしろ暇をしているときでしたから、私もべつに断る理由もなく、応じていました。

そうすると、次にどこに行くのか?という話になるわけです。

だいたい祖父のリクエストで帝国ホテルに行くか、私のリクエストでハイアットのどこかに行くか、55の年の差を超えた、ささやかなかけあいがはじまります。祖父は特に帝国ホテルのオールドインペリアルバーが好きで、ビールに合わせて柿ピーを出してくれるところに妙な喜びを覚えるようでした。それにじめっとした鈍色の雰囲気を持つあの空間で食べるサンドイッチも大好きだったようです。

大抵はうまく話がまとまってどちらかの行きたい方に行くのですが、お互いのホテルに対する主張がぶつかったりしたときには、行く先はひとつに決まっています。

そう、ホテルオークラ東京でした。

ハイアットとはおよそ方向性が違うのに、私はこのホテルが好きでした。また祖父もこのホテルが好きだったようです。祖父は「いいホテルだよな」の一言。他方で私は「スタッフの方々からあたたかさを感じさせられ、料理の質も高く、和と洋の絶妙な調和の趣ある空間も魅力的だ」と無駄に饒舌。

異なる感性だったけれど、このホテルが好きということには違いがなかったのです。

このホテルのレストランにふらっとやってきて、「山里」のそばやうどん、「桃花林」の汁そばなどさっと食べ飲みして出てくる。とりわけ気に入っていたのがこのホテルのクリームコロッケで、とろとろクリーミーの中にどしっとしたずわい蟹の風味が余韻となる、私も大好きな一品です。

このホテルのレストランには、落ち着きを感じさせられる何かがあるように思います。だからなんとなく話しやすくなって色々な話がこぼれてくる。今でもときどき、祖父が話していたことを懐かしく思い出したりします。学校でいじめられていた話とか、初恋の話とか、進駐軍がいまの御茶ノ水の「山の上ホテル」で開いていたパーティに憧れた話とか、父親から会社を受け継いだときの不安とか…私以外の家族の誰にも話さない話をしてくれました。

その後祖父は次第に体が衰えていき、認知症も進み、ついには外食もできなくなり、あんなに好きだったビールも飲まなくなってしまいました。

なんの因果か、祖父と最後に一緒に行った会食はホテルオークラの「ラ・ベル・エポック」のランチでした。そのときは祖母も母も一緒に祖父の誕生日を記念して行ったのです。祖父は好きなビールを1杯だけ飲み、ちょっと贅沢に、好きなフィレ肉の塩釜焼きを食べて、満足そうな表情で帰路についたのを覚えています。

このホテルの古めかしいショッピングアーケードや、控えめなのに華やかな個性的なロビーを歩くと、その特徴的な昭和のホテルの匂いすらも変わらないままで佇んでいます。それはある種の安心感と懐かしさの綯い交ぜになった、私にとってはホテルオークラにしかない現在と過去との邂逅といえるものです。

いまでも私はここに足を運ぶと、心の中に密かにそんな過去と現在の邂逅を感じます。ペントハウスの空間は東京のホテルのどこにもない空間。古めかしいけれども高揚感を喚起して、落ち着きと特別な場所にいる感覚をもたらしてくれます。

ホテルオークラの別館は新本館にあたる「The Okura Tokyo」の完成の後もしばらく営業は続けるようですが、タワーマンションへの建て替え計画も出てきているようです。レストラン「ラ・ベル・エポック」もそのファインダイニングとしての役割を終える予定です。私が祖父と一緒に過ごした記憶と共に、この店の名前に表れている古き良き時代は過ぎ去っていきます。そしてThe Okura Tokyoの新しいファインダイニングの名前はヌーヴェル・エポック(新しい時代)。

喪失感は、きっと、ふとした瞬間に、現在と過去との鮮烈なギャップとなって襲ってくる感情のことだと思います。そんな喪失感を埋め合わせてくれるのは、きっと心の片隅に眠る過去の記憶のひとつひとつなはず。私は祖父や家族との思い出の宿るこの場所に、新しい時代の記憶をこれからも紡いでいくのだと思います。

あのあたたかい記憶に思いを馳せに、ホテルオークラに再び足を運びたくなってきました。

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