2022年5月 富士屋ホテル宿泊記 西洋館ヒストリックデラックスツイン

素晴らしい思い出がみんな蘇ってくるのです。

涙をさそうこともあるけれど。

あの頃と同じように。

もしあの頃に戻れるならば…

首都高速を抜けて、東名高速から小田原厚木道路を通って、箱根に向かう車のなかでCarpentersのYesterday Once Moreの一節が頭のなかに浮かんできました。美しい旋律にのびやかな声でしみじみとした曲が流れる今日は連休の最終日。青空の神奈川中部はどこかのどかで、春から夏への移り変わりと長い休みの終わりに特有の切なさをどこかに感じさせる陽気でした。歌詞のように変化を数えだしたらきっと悲しさをより強く感じてしまう。懐かしいラブソングをうちに秘めて、過ぎ去った時間を溶かしてしまおう。

そんな感覚になってしまったのは、今日向かうホテルが100年のときを超える歴史をいまに伝えるからでしょうか。ずっと泊まりに来たかった宮ノ下の富士屋ホテル。ここには豊かな歴史があります。

富士屋ホテルは日本を代表するクラシックホテルのひとつ。単純な比較ができないことは前提のうえであえて引き合いにだすと、オテル・リッツ・パリの創業は1898年、ハワイのモアナ・サーフライダーは1901年、ニューヨークのセントレジスは1904年でプラザホテルは1907年…富士屋ホテルはそれよりも古い1878年創業。さらに驚くべきはそうした世界の名門ホテルの歴史よりも古い建物が現役ということでしょう。本館が完成したのは1891年のことで、いまも現役で利用されています。

連休最終日のせいか上り線はそれなりに混雑がみられましたが、箱根に向かう道路は混雑もなく、想像以上に早い時間にホテルまで着いてしまいそうでした。

少し回り道をしていこうか…車の進路は富士屋ホテルを超えて山の上に向けました。

芦ノ湖の畔の林道を抜けて、箱根神社の少し先の坂を登ると、ちょっと古めかしい外観のホテルが見えてきます。懐かしい…思わず口にしてしまいました。箱根の別荘に滞在すると、よくここまで家族でお茶をしにきたものです。小田急の山のホテル。富士山を望む庭園の5月。つつじの花が咲いて、湖から吹く涼しい山風がとても心地よかったことをふと思い出して、行きたくなったのでした。昭和的な感性で仕上げられたヨーロピアンスタイルのレトロホテルは、いまもあの頃のままです。しばし思い出に浸っていたら、もう帰ってこない時間に、あたたかくもせつない気持ちが込み上げてきました。しかし明るい新緑の色合いにはこれくらいのメランコリーがちょうどよく思えたのでした。

往路とは違う道を通って、黄金色の芒のない仙石原を抜けて、宮ノ下に辿り着きました。すぐにこの地のランドマークとわかる富士屋ホテルの花御殿。その横の急坂を抜けて、本館の下のポーチに車を横付けしました。年配のベルボーイが荷物を預かり、そのまますぐ本館から近い場所の駐車スペースに我々を誘導してくれました。そのまま階段をのぼっていくと、いきなり19世紀の匂いが漂います。サンルームには5月人形が飾ってあり、明治時代の洋風建築に花を添えていました。

3つの世紀を生きてきた古い建物とは対照的な若い女性スタッフがチェックインの手続きを進めます。おそらく連休で人も多かったためでしょう。部屋はまだ準備ができていないようでした。しかしすぐに隣接するラウンジの席を確保してくれたので、そこで部屋の案内を待つことにしました。

私が世界で最も好きなアップルパイはどこのものかと問われたら、富士屋ホテルのものを挙げるでしょう。りんごの甘さに食感、パイ生地の軽やかでありながらしっとりした質、スパイスの香らせ方、バニラアイスの爽やかなクリーミーさが絶妙で、冬ならパイをあたためて温製に、夏はひんやりと冷製にして楽しめるのも素晴らしい。そんなわけで私は今日もコーヒーとともにアップルパイアラモードを頂くことにしたのでした。

おそらく明治時代から伝えられてきた古めかしい白い引き戸は少し開いていて、そこから森の香りと共に午後の風が入ってきました。明るい空も心地よく、まさに王道の山の休暇とでも思えるひとときを過ごしたのでした。

今回滞在するのは西洋館。こちらは20世紀の建物とはいえ1906年の建築。ザ・リッツ・ロンドンが開業した年の意匠を残したままの雰囲気に惹かれて予約したのでした。西洋館はComfy RodgeとRestful Cottageの2棟で構成されており、建物の背後の渡り廊下でそれぞれがつながっていました。歴史あるこのホテルで個人的に最も明治時代の洋風建築の意匠が残っている建物ではないかと思っています。唐破風の屋根に鎧戸付きの上げ下げ窓。当時の錦絵に描かれていてもまったく不思議ではないここに泊まるというのは実に豊かな体験であることは間違いないでしょう。

明治時代のホテル建築に目を輝かしていたのを隠しきれなかったのか、部屋の準備ができたと伝えにきてくれた初老のフロントスタッフは、私に同じカテゴリーのふたつのタイプを見せてくれました。ひとつは奥に位置している落ち着いた雰囲気の長方形の部屋。渋い魅力があります。そして次に見せてくれたのは正面側に面している角部屋。扉を開けた瞬間から私はこの部屋にしようと決めました。角度のそれぞれ異なる鎧戸の窓から箱根の新緑が綺麗に眺められ、高い天井とリノベーションによって新しくなったけれども昔の意匠を継承した家具の数々。まさにこれを求めていたのです。

部屋で少し落ち着いてから、ホテルのなかを歩いてみることにしました。西洋館に隣接しているのは本館と昭和初期に完成した花御殿。少し奥まったところにフォレストウイングがあります。山裾に沿ってホテルの建物があり、高低差がけっこうあります。しかしその立体的な配置がまた探検したい欲を掻き立てるのです。朝になったらハーブガーデンに行ってみよう。夏だとアウトドアプールもあるのか…錦絵風の館内案内を見ながら色々と想像を膨らませるのもまた楽しいものです。

いったいどんな人がこの赤い絨毯のうえを歩いたのだろう。この窓からみえる緑の美しさを眺めたのだろうか…時代を超えて愛されるホテルはいつも私たちの想像力に火をつけてくれます。この階段を降りて左に曲がるとほどなくコーヒーのよい匂いがしてくるのですが、そこには小さなラウンジがあり、宿泊客は自由に利用することができるようになっていました。幼少の頃に富士屋ホテルといえばコーヒーだと祖母が言っていたことをなぜか急に思い出しました。

フォレストウイングまで歩いてみると、そこにはライブラリーがあり、富士屋ホテルに関係しそうな書籍を自由に読めるようになっていました。まだ夕食まではしばらく時間がある。温泉に浸かるのもいいけれど少し読書でもしよう。このライブラリーにも初夏の心地よい風が吹いていて、さらに無名のリラックスミュージックが眠気を誘います。なんだか今日は妙に眠くなってしまいそうでした。立ち上がってこの部屋をあとにしました。このまま眠ってしまうには勿体無い。同じくホテルのなかを探検していると思われる若いカップルが入れ違いにライブラリーに入ってきました。

お酒は飲めないけれど、バーは好きです。食堂棟にある古めかしいバー・ヴィクトリア。古いジャズの名曲がかかっていましたが、その曲よりも昔からこのホテルはここにある。物静かなバーテンダーに勧められて、クラブハウスサンドにあうような柑橘系のモクテルを作ってもらいました。古そうなダーツにぼんやり光があたり、夕食を終えたと思われる年配の客がカウンター席で天を仰いでいました。あたかもそこにはこの世にいなくなってしまった人たちが集うかのように。古いホテルの古いバーにはそのようなミステリアスな趣があります。しかしそれはなんだかあたたかい気がします。おそらくもっと若いときだったらその感覚を持つことはできなかったことでしょう。まだまだ人生はこれからも続いていくけれども、これまでも数多くの出会いと別れがあった。そうしたことに思いを馳せるとき、私はそのあたたかい神秘的な感覚に触れられるような気がするのです。

部屋に戻って、部屋のバスルームで温泉に浸かってから、窓を開いてソファに腰掛けます。山の宵闇のなかにぼんやりと明治や昭和初期の建物が浮かんでいました。私は本当にいま令和の時代にいるのだろうか。この感覚は私にとって画期的な非日常感でした…それにしても静かです。この無音の歴史との対話のなかで私はベッドに入りました。普段ホテルに泊まればもちろんエアコンを操作して室温を調整するのですが、今日は窓を開けて寝ることにしました。

朝早く目覚めたら、身支度を整えて、メインダイニングルーム・ザ・フジヤにて朝食を。6メートルの高さの天井に高山植物が描かれた格調高い和洋折衷の空間。今日はなんとなくオムレツやスクランブルエッグではなく、ポーチドエッグを食べたい気分でした。フレッシュオレンジジュースにしてもコーヒーにしても、そして卵料理にしても、どれも非常に丁寧に作られていることを感じさせられます。満たされた朝食というのはその日の自分の基調となるような気がします。

外にでると花御殿の前の庭にもつつじが咲いていました。今回の西洋館の素晴らしさは言うまでもありませんが、この橋を渡った時に無性にあちらに泊まりたい気持ちになりました。

さてその花御殿の地下には日本最古のホテルプールがあります。白亜のタイルに壁の絵画や彫刻…1936年の意匠がここにはあります。全国にも歴史あるホテルは数多くあり、明治時代や大正時代の建築も残っていますが、このような室内プールを少なくとも私は他に知りません。また屋内と屋外の両方にプールを備えた箱根のホテルというのも他に知りません。クラシカルホテルでありながら、現代にも十分すぎるほどに通用するグランドホテルでもある。この事実は強調されて良いでしょう。

さて、そんな知識はひとまず置いて、ここが最先端であった昭和初期の様子を想像しながら温泉水のなかを泳ぐことにしましょう。

残りの部屋を部屋でくつろいで正午くらいにチェックアウト。早朝に窓の外を眺めていたことを思い出します。山を吹く風に見知らぬ花の匂いがどこからともなく運ばれてきていました。そして東の空が徐々に明るくなってきました。陽はまた昇る。いつかそんな言葉を私にかけてくれた人のことを想い出していました。もしあの頃に戻れるならば…とYesterday once moreを意訳していた私。でも戻る必要がないこともわかっているのです。変わってしまったことを数えるのではなくて、変わっていくことを受け入れるのだ。すっかり太陽が昇りきった今日の昼の箱根の山の上には、昨日よりも鮮やかな青が広がっていました…もう夏も近いですね。

フォローお待ちしています