春になるとどういうわけか瀬戸内海の景色を眺めにいきたくなります。しかしそれを実現できるかどうかは別でした。東京に住んでいる私にとって、物理的には近くても、気軽に旅をするには遠い場所。それゆえに九州や北海道以上に行く機会のない場所でした。
ぼんやりと数年前に広島を訪ねたときのことを思い出していました。少し切ない美しさを感じる夕凪の風があの日の街に吹き抜けていました。東京では味わうことのできないあの心地よい春の涼しさ。それは春は暖かさを感じる季節と感じている私にとっては軽い衝撃のように思われたのでした。
今日、私は羽田空港に来ています。目的地は広島。ターミナルは以前の賑わいを取り戻しつつあるようで、多くの乗降客で賑わっていました。思いのほか搭乗口から検査場まで遠くて、鳴り響くファイナルコール。慌ててB737に乗り込みます。飛行機は順調に高度を上げ、それほど時間を感じないうちに、今度は降下を開始しました。それほどに近い場所なのだ…時間としてはそうなのですが、機窓から見える山裾の萌黄色に遠い場所に来たような感覚を覚えます。
高速道路を走るバスの車窓から遠くに瀬戸内海と広島市街が見えました。さほど高くない山々の色合いは全体に明るいけれど、それは春だからなのか、それとも元からそういう色なのか…私にはそれを判断できるほどにまだこの街を訪ねていません。駅前でバスを降りるとすぐにチェックイン。3つ並んだ正方形の鮮やかな絵が印象的なロビー。まだ若そうなスタッフが淡々と手続きを進めます。隣にいた年配のスタッフが今日はほとんど満室なのだと伝えてくれました。
シェラトン特有の甘い匂いがする廊下を端まで歩くと今日の部屋。コーナールームだけあって2面の窓から差し込む光がとても明るく感じられます。窓から見渡すと広島の街と遠くにキラキラ光る春の海。そうなんだ。この風景を眺めたかったのだ。私は出張という本来の目的を半分忘れてしまいそうになりました。ふと下に目線を移すとシルバーの山陽本線の列車が広島駅に入線する様子が見えました。しばらく前にはたくさん走っていた黄色い電車は徐々に数を減らしているのでしょうか。
しばらくして外出。さも勝手を知っているかのような澄ました顔をして路面電車に乗り込みます。本当は低床の窓から見える見知らぬ街の景色に心はときめいているのです。でも、悟られまい。紙屋町の電停を降りて基町で所用を済ませます。
瀬戸内海の魚料理が美味しいらしい。その評判に間違いはありませんでした。カワハギや鯵や赤貝…躊躇いなく注文してしまいました。基町を歩いている途中で道に迷って、しばらくのあいだ、川沿いをとぼとぼと歩いていたことはもう忘れてしまいました。夜になるとまだやはり寒い。でも今日はホテルまで歩いて帰りたい…そんな気分でした。
平坦にして広すぎないこの街を涼やかな夜風がなでていました。橋から川面までがとても近い。その上を滑るように走っていく路面電車の中には、少しの疲れと安堵の表情を浮かべた人たちの姿が煌々とした明かりに照らされていました。私もシェラトンのあの少し固めのベッドにそのまま身を埋めたい気持ちが強くなってきました。少し寒さを感じるようになってきた夜の22時。大規模な工事が行われている広島駅の構内を抜けてホテルまで戻ってきました。
昼間の明るさとは対照的なぼんやりとした夜景。なんだか部屋全体もすっかり月夜のしじまに沈んでいるかのような気がしました。
少し遅い時間のバスタイム。浴室の窓からは駅前のタワーマンションの明かりが見えました。あそこにも生活があり、そしていま私はここにいる。抽象的な発想を脳裏に浮かべて、le grand bainの香りを浴びながらシャワーで流すと気分はすっかりリラックス。アイスクリームが食べたくなりました。
カーテンは開けたままで寝てしまおう。あの長い編成の貨物列車は、どこからやってきて、どこへいくのだろう。広い窓辺の向こう側には無数の物語がある。その壮大さを想像しながら私は眠りに落ち、小さな夢を見ていました。
眩しい光が差し込んできて目が覚めました。広島の街は今日も快晴。あの日と同じように胸に染みる綺麗な青が山の方まで続いていました。帰りの飛行機まではまだまだ時間がある。朝食を取り終えたら宮島まで足を伸ばしてみることにしましょう。
山陽本線の宮島口で降りて、船に乗り継いで島に渡ります。厳島神社の鳥居は改修工事中でした。しかし私がすっかり気に入ったのは、海に向けられた何の変哲もないベンチでした。松風は狂おしいほどに切ない思い出を心のなかに想起させますが、穏やかな波の瀬戸内海がとても心地よくて、一日中でもここに座っていたいような気分。過去のことは過去のことだ。そう思わせてくれる不思議な力がこの島にはあります。わざわざここまできて本当によかった。人生はきっと遠回りすることに面白さがあるに違いない。そう思うのです。
…この旅から1ヶ月。宿泊記に書いてみると改めて豊かな時間だったという思いを噛み締めます。あのときからなんだか物理的にも精神的にも慌ただしい日々でした。そういうときにこそ、何も考えずベンチに座る時間が必要な気もしています。旅も、そしてホテルステイも、まだまだ続いていきます。