東京の乾いた冬のなかで過ごし続けていると、春のあたたかさを待つような心境になってくるものです。私は冬という季節が好きだし、時が早く過ぎていってほしいとも思わないのですが、ふとなんだか、あのあたたかい陽射しが恋しい気持ちになっていたある日のこと、どういうわけか日本庭園のあるホテルに泊まりたくなり、高輪にあるザ・プリンスさくらタワーを予約したのでした。いや、そうした春待つ心境は、じつはこじつけで、ホテルに泊まりたくなったから泊まりにいったという至極単純な動機だったようにも思われます。
ホテル選びは様々な宿泊のイメージを考える魅力的な時間ですが、今回直感的に浮かんだイメージというのは、なんだか隠れ家感のある場所。より具体的には第一京浜に接する坂を少し登ったところにあるこのアプローチ。桜色のややメルヘンチックな建物の手前にある、回廊のような日本を感じさせられるこの通路を、唐突に、歩きたくなったのでした。そういうホテル選びの動機はいかにもホテルジャンキーらしいものですが、一度そう思うと、泊まりにいかずにはいられない。今日もホテルへと車を走らせます。
バレーパーキングではありませんが、かわいらしい桜色がアクセントになった黒いおしゃれな制服を身につけたスタッフは、荷物を預かってくれて、丁寧に駐車場を案内し、私が駐車するのを待ってから、エントランスまでエスコートしてくれました。
チェックインを速やかに済ませて客室へ。扉が春夏秋冬の色に塗られたエレベーターホール。ここもこのホテルの好きなところのひとつです。全体的にスタイリッシュにまとめられているのですが、ところどころにメルヘンチックな要素が散りばめられているところがなんとも心憎い。エレベーターの扉の開閉するスピードや上下するスピードもストレスなく素晴らしく、奥にある「冬」のエレベーターは、客室フロアと地下のリラクゼーションフロア以外には停止しないように分けられています。そういう小さな配慮もまたこのホテルの特徴のひとつと言えるでしょう。
今回の部屋はジュニアスイート。全体的に丸い部屋。特徴的な湾曲した窓に、大きくカーブを描く玄関からベッドルームに至るアプローチ。円形のブロワバスを擁するバスルーム。淡い色合いのゆるやかな曲線の客室に佇んでいるとなんだか心もゆるんで、まるくなるような気がしてきます。
桜の柄のカーペットがかわいらしく、ベッドも柔らかくて寝心地がよい。もし私がここに仕事を持ち込んでこなそうとしても、なんだか気が入らないかもしれません。ぴりっとした気分を高めたいときにはまず泊まらないけれど、穏やかな心地になりたいときには是非ともこの部屋でのんびりと過ごしたいと思います。
丸いブロワバスを中心にウェットエリアもゆるやかな弧を描くつくり。ウッドブラインドがついた窓から溢れる光がこの白い空間をさらに明るくしていました。ややコンパクトではあるもののしっかりとダブルシンク。アメニティはACCA KAPPAのホワイトモス。そして桜と檜の2種類の香りのバスミルク。ゆっくりとしたバスタイムを過ごすのに十分な設備を備えていると言っていいでしょう。
部屋で少し落ち着いたら庭園を散策に出かけます。この場所を歩いていると、変わりゆく品川や高輪の街並みにあって、なんだかとても静かな時間が流れているように思われます。高層ビルに取り囲まれているけれど、目線を低く落とせば優雅な日本庭園。冬の東京に特徴的な乾いた空気が古木の香りを運んできたのか、ふと、私は山のリゾート地にでもいるような気持ちになってきました。
さくらタワーはマリオットのオートグラフコレクションに加入していますが、庭園を挟んで隣接するふたつのグランドプリンスホテル(高輪・新高輪)と一体としたホテルと見なすこともできます。現存するプリンスホテルのなかにあって、最も古いプリンスホテルであり、また隣接する品川プリンスホテルまでも含めたこの一帯は国内のホテルでも屈指の規模を誇るものでしょう。それを象徴するかのようなグランドプリンスホテル新高輪のロビーの広い空間は一度は歩いておきたいところ。
せっかく「新高輪」まで来たのだからラウンジにも寄ってみましょう。高輪とさくらタワーの3つのラウンジホッピングもまたこのホテルの過ごし方としてよく知られています。村野藤吾の設計したこの建物で、同じく師の設計である国際館パミールの優雅で不思議な造形を眺めながらコーヒーを飲むのも悪くありません。そうしていると、今回泊まっているさくらタワーにもその建築美への連続性を感じさせる要素がたくさんあるように思えてきました。曲線を多用した客室はまさに「角を丸く」。
さくらタワーの戻って、丸い部屋のカーブを描く窓から眺める冬の東京の夕暮れ。プルシャンブルーとオレンジのコントラストはいつどの場所からみても美しいものだと思います。庭園は静かに時間が流れている一方で、ビルの灯りは徐々にはっきりとした像を結ぶようになりました。ひとりの部屋。なぜかバロック音楽が聴きたくなって、レオンハルト演奏の平均律クラヴィーア曲集を…空の色の変化と刹那的なきらきら輝くような音の変化。切なさを感じさせながら、同時に、なんだか豊かな気持ちになります。
すっかり外も暗くなって、再び庭を歩いてみることに。枯れ木に淡いピンク色のイルミネーションがあたって、まるで冬の桜。乾いた冷たい風のなかの落ち着いた庭園にどっしりとした存在感を示す木々の豊かさ。今日は人もまばらでひときわ静かに思えました。随分前に家族と一緒にステーキハウス「桂」に鉄板焼きを食べにきたときのことを思い出しました。あのときもこの庭園をとても気に入って、グランドプリンスホテル高輪のラウンジにわざわざコーヒーを飲みにきたものでした。それからしばらく忘れていたのですが、やはり、この雰囲気、なんとも良いですね。
懐かしい気持ちに浸りながら庭園から戻ってきたところにある螺旋階段の優美な曲線。静かな夜になると一段とその魅力を増すように思いました。過去との対話。このホテルの一角にポツンとある貴賓館がまだ竹田宮邸だった時代から紡がれてきた歴史。この高台を降りたところにある品川駅のあたりは、海岸線に接した長閑な場所だったことが当時の写真からわかります。当時のことを知る人はもういないけれど、失われていく記憶の断片が思いがけない場所に宿っていたり、違う形で継承されていたりするのかもしれません。建築家・片山東熊の、あるいは村野藤吾の、そしてもちろん数えきれないほどのこの地に足を運んだ人たちの小さな痕跡。そのなかに私や私の家族が過ごしたあたたかいある春の日の記憶も含まれている…
さくらタワーはまだ比較的あたらしいけれど、古いものが敷地に残っているホテルには、そうした過去への手がかりに触れて、あたたかい想いが込み上げてくる何かがあるような気がします。
部屋に戻って、ブロワバスにお湯を溜めて、このホテルの名前にちなんだ桜の香りのバスミルクを入れて、水流のなかでゆっくりとくつろぎます。静かな庭の気配をかすかに感じながら、ぼんやりと心地よい気分。夜になって一段とひんやりした空気に触れてきたせいか、床暖房とあたたかいお湯にとても癒されます。これもまた落ち着くホワイトモスの香りのバスアメニティを楽しみながら、奥のブースで優しめのシャワー。ふわりとしたバスローブを纏ってから丸い部屋で過ごしていると無心になれるような気がします。
そんな心境だったせいか、ロイヤルマハロアイスをルームサービスで注文。すぐに部屋に届けてくれました。さつまいもがベースになった不思議な食感とやんわりとした甘さ。このまま今夜は寝てしまいましょう。
翌朝早く目覚めると、身支度を整えてからラウンジで朝食。さくらタワー・新高輪・高輪の3カ所から好きな場所を選べますが、私は「高輪」のラウンジにしました。前日にすべてのラウンジを回ってみた結果、日本庭園に面していて、最も心地よく感じられる場所だったというのが大きな理由です。またこのホテルのもつ雰囲気や前評判からも和朝食を食べてみたいと思ったのでした(他のラウンジでは洋朝食が提供されています)。日本庭園は冬の朝のピンと張った空気のなかで、静かな美しさを湛えていました。
さくらタワーのラウンジに戻ってきてよく冷えた温州みかんジュースを頂きます。外は寒いけれど、室内はあたたかい。冬のアイスクリームにも共通する、ひんやりとしたものの美味しさをしみじみと感じながら朝食後のひとときを過ごしました。
部屋でゆっくりと過ごしていたのですが、朝が比較的あっさりとした和食だったせいか、お昼にはすっかり空腹になっていて、自然と足が向いたのが「ラウンジ光明」。その名の通り、日本庭園越しに光が差し込むとても明るい雰囲気の場所です。今日はひともまばら。近くから散歩がてらコーヒーでも飲みにきたのか老夫婦がひと組、窓際の席で日の光を浴びていました。にこやかなスタッフに促されて、私も窓側の席に。少しまぶしいかもしれない、そう思いましたが、なんだか今日はこのまぶしさとあたたかさが心地よい。
注文したのはカルカッタカレー。1953年にこの地にプリンスホテルが開業したときの伝統のレシピ。野菜の食感の粗さと旨みを活かした、スパイシーながらも優しい味わいが特徴的です。インドのカルカッタは2001年にベンガル語のコルカタという正式名称に変更されましたが、あえて、かつての地名を残しているのも、そうした伝統への自負からでしょうか。福神漬けを乗せて、ごはんのふわふわとした食感と合わせる。カレーライスは、クラブハウスサンドと並んでそのホテルの雰囲気をよく反映するものだといつも思います。
さあ再び日本庭園を通って部屋にもどってそろそろチェックアウト。乾いた空はどこまでも青い。思い返すと、今回の滞在はゆっくり過ごしたようでありながら、なんだか慌ただしくもありました。久々の訪問だったせいもあり、この広いホテルのあちらこちらを歩き回りたい気持ちになり、さまざまな記憶に思いを馳せたり、ラウンジを楽しんだりと、ひとつの場所にとどまらなかったためでしょう。高輪・品川エリアのプリンスホテルは、マンモスホテルならではのさまざまな楽しみ方ができるものだと改めて思います。
今度は、さくらタワーにとどまって、なにもせずゆっくりするというものも悪くない。でも結局いろいろなところに足を運びたくなってしまうのだろうか…?そんなさまざまな想像を浮かべながらホテルをあとにします。
坂を降りて、ひっきりなしに車が行き交う第一京浜に出た時に、ふと、あの庭園に佇む穏やかなホテルで過ごした時間がなんとも恋しくなりました。