ザ・プリンス箱根芦ノ湖 隠れたホテル建築の傑作を見てきた

村野藤吾(1891-1984)は大阪を拠点にした大建築家であり、同時代に東京を拠点に丹下健三と共に日本の高度経済成長期の建築史に燦然とその名を残しています。この時代の建築家が向き合ったひとつの大きなテーマとは「モダニズム建築」をどのように捉えるのか、ということでした。

(Photo: 『国際建築』1954年4月号)

モダニズム建築とは「鉄・コンクリート・ガラス」を要素にして成り立つ建築様式のことです。それぞれの素材は近代の工業生産によってはじめて大量に供給できるようになったものであり、それらを活用した「モダン」な建築が20世紀以降は主流になっていきます。初期のモダニズム建築家のアドルフ・ロースは、建築について「装飾は罪だ」として、飾り立てることなく、ただひたすらに建物の機能だけのシンプルさを追求することの必要を唱えました。この理念はその後の建築の中心になっていくのです。

いま、たとえば、東京や大阪といった大都市に林立する超高層ビルを思い描いてみましょう。東京ミッドタウン?あべのハルカス?…特徴的なのは、鉄鋼でフレームが組まれて、全面が強化ガラス。まさにこのモダニズムの要素は現代の建築の核心にいまもあり続けています。また東京上野の国立西洋美術館を手がけたル・コルビジュエの作品群は世界遺産に登録されています(国立西洋美術館もそのなかのひとつ)。

無駄を削ぎ落とした機能美こそがモダニズム。しかし村野藤吾はモダニズムに挑戦状を叩きつけるようにして、独自の世界観を切り開いていていきました。彼は日本的な美の様式としての数寄屋造を高く評価しており、そのオマージュとなる建築家を残しました。その代表作としては現在のウェスティン都ホテルにある「佳水園」(1959年築)があり、薄い銅板を巧みに重ね合わせた屋根や斜めに交差させた障子組みなど、いまでも斬新な作りとなっています。

村野はまた数多くのホテル建築を手がけており、モダニズムを基本としながらも、岩や貝殻などを組み合わせた幻想的な表現を漂わせています。特に関係が深かったのが、プリンスホテルと都ホテルであり、いまも施設として利用できるところも数多くあります。

今回は村野によるホテル建築の代表的な傑作として知られる「ザ・プリンス箱根芦ノ湖」(1978年開業)を訪ねてみました。

ザ・プリンス箱根芦ノ湖のインテリア

プリンスホテル系列の上位ブランドである「ザ・プリンス」にカテゴライズされる【ザ・プリンス箱根芦ノ湖】は、同グループが手がける総合レジャーエリアである「箱根園」の中に位置しています。遊覧船やショッピングモール、水族館などがあり、箱根・芦ノ湖エリアの一大観光拠点となっていますが、「ザ・プリンス」自体はやや奥まった場所にあるためか静かな雰囲気が漂います。

芦ノ湖の湖上からも客室棟とレストランで構成された特徴的な円形の建物がよくみえます。一見してわかるように、広大な芝生の庭園のなかに立っており、森林浴を楽しみながら湖畔を散歩できるようになっています。都市部では絶対にできないような贅沢な空間の使い方ですね。

(裏話ですが、この写真は九頭竜神社という隠れ名所へアクセスできる「箱根園」のモーターボートから撮影しました。冬場の湖上はとてもとても寒かったです)

印象的な円形の建物ですが、もうひとつの特徴は屋外にバルコニーが設置してあるものです。村野のホテル建築において「円形」と「バルコニー」は比較的重要な要素のひとつだと思います。当ページでも以前に取り上げた「グランドプリンスホテル新高輪」(1982年開業)の各客室にもバルコニーがついていますし、同じく「グランドプリンスホテル京都」(1986年開業)は建物全体が円形になっています。

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そして「ザ・プリンス箱根芦ノ湖」の特徴としては、開業当時の様式がそのまま残っていることです。

(Photo : 『新建築』1978年9月号)

これらの写真は完成当時のものですが、さすがに時代に合わせて更新されていると思われますが、特徴的な材質の壁などは当時のまま。ちなみにインド砂岩の割石に特殊な砂をまぜたもので、じつはこの壁だけでも一見の価値があるものなのです。

(Photo : 『新建築』1978年9月号)

こちらの写真はメインダイニングですね。現在でも同じ場所に西洋料理「ル・トリアノン」があります。公式ページのものと見比べてみると、基本的な部分は当時からほとんど変えていないことがわかります。

村野はこの円形のダイニングについて、「環境と景観の保全に徹する初期の目的から周囲樹高を越さないように計画した」といいます。

こちらは開業当初の客室です。さすがに古さを隠せないのですが、様々なところに村野の工夫が見られるつくりになっています。当時の村野の証言を参照すると、それぞれのベッドは移動できるようになっており、部屋の広さを好みに合わせて自由自在に調整できるようになっている。そしてベランダを設けることで天井から床までいっぱいに外の景色を取り入れることができる。この2つがアピールポイントだったようです。

その後1980年代・90年代とホテル建築は数多く生まれましたが、客室にこのような開放感をもたらす工夫というのはかなり先進的だったのではないでしょうか。

ロビーラウンジも当時のままです!

さきほどみた客室はリノベーションされ、別館の客室の壁面やバルコニーを除いてはもう往時のデザインをとどめてはいません。しかしこのホテルの顔ともなるロビーは家具まで往時のままで残されているのです。

真っ赤な絨毯に、上に行くほど絞り込まれていく天井が印象的なロビーです。そして窓ごとに独特のインド砂岩の壁で区分けされており、テーブルと椅子が並べられています。

谷口吉郎が手がけたホテルオークラ東京の旧本館などもそうなのですが、やはりホテルのロビーのような公共的な空間には建築家の意図が反映されやすい気がします。

上が現在の写真で、下が創建当時の写真です。

石造りの壁、真っ赤な絨毯、カーテンそして背の高い独自の形状をもった椅子に到るまで現在までオリジナルをとどめています。村野藤吾の作品に限らず、高度経済成長期やそれ以降のものでさえ、スクラップアンドビルドでどんどん淘汰されて、新しいものへと転換させられていく。特に利用者の入れ替わりが多く、公共的な性格をもったホテルの場合にはその傾向が顕著だと思いますが、ここは時間が止まっているかのようです。

もちろん今の高級ホテルの水準からみると、洗練もされていないし、素朴なインテリアではありますが、この空間は後世にも残して欲しいものだと思います。

還暦後に開花した?村野藤吾の建築遍歴

戦後建築として初めて重要文化財に認定されたのは、丹下健三の建築と村野藤吾の建築でした。それほどまでに偉大な建築家として認知された村野でしたが、その建築界での開花は思ったほど早いものではなかったようです。1891年に佐賀県に生まれ、福岡の工業学校(現在でいう工業高校)を卒業した後は、八幡製鉄所に就職。従軍の経験を経て、改めて学問を志して早稲田大学に入学。電気工学を学ぶものの合わずに転学し、建築学科を卒業したときには27才になっていました。

その後1935年の「そごう大阪店」(現存せず)といった数店の傑作はあったものの、日中戦争・太平洋戦争と続く不遇の時代を過ごし、機会にはさほど恵まれなかったようです。1951年には大規模なホテル建築である「志摩観光ホテル」を手がけますが、そのときすでに60才。村野の代表的な建築は還暦を迎えたあとに集中しています。「ウェスティン都ホテル京都」は67才で、「日生劇場」は72才で、そしてこの「ザ・プリンス箱根芦ノ湖」は87才のときの作品。年齢というものにネガティブになる必要はない、ということを彼の人生から示唆されるような気がします。

ザ・プリンス箱根芦ノ湖でランチを

場所を移動して、別館のエントランス。

村野の作品にはしばしばこのようなモザイクタイルが用いられ、幻想的な雰囲気を醸成しています。凸型のシャンデリアと並んで、華やかな印象の天井です。

変形的ならせん階段を降りていきましょう。

このホテルの別館1階にあるのが「レイクサイドグリル」です。メインダイニング「ル・トリアノン」やラウンジ「やまぼうし」が往時の雰囲気をとどめているのに対して、こちらのレストランは比較的新しくオープンしたものです。

こちらではブッフェ形式のランチ(¥3,200~)をとることができます。

レストランの雰囲気はプリンスホテルらしく、あまり重くなりすぎない適度なカジュアルさがあります。またブッフェの料理も和洋中が組み合わされて、万人受けしそうなもの。

村野藤吾の傑作を眺めながら、芦ノ湖の湖畔を散策する。そして気軽にランチしたり、あるいはラウンジでお茶をしたり…そんなゆったりとした時間も良いものだと思います。

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