ひらまつ賢島宿泊記 2021 美し国に魅せられたクリスマスの滞在、そのグルメの魅力と共に

乾いた風が吹き抜けるまだ陽が昇りきらない東京の冬の早朝。吐息の白さに寒さを感じながら車のエンジンをかけます。前日に簡単な点検とタイヤ交換を済ませたばかりの我が車。今日はいつになく気が引き締まります。久々のロングドライブ。東京から約500kmの伊勢志摩へ向かいます。途中でパートナーを拾って東名高速を西へ西へ。朝日に輝く富士山に寝ぼけ眼もいよいよ醒めてきました。静岡を超えて、伊勢湾岸道路の工業地帯を進むともうだいぶ走ってきたという感覚になってきます。想像していたよりも順調に三重県に到着。

伊勢でうどんを食べて、鳥羽にたどり着きました。海水温は地上の風よりも温暖らしい。透明度の高い暖流の黒潮を連想します。かつて御木本幸吉とその親族が半円真珠の養殖に成功した記念の地で、ささやかな真珠のアクセサリーをプレゼントする。混雑するだろうクリスマスの当日にふたりで会わないかわりに、今年は静かな場所で食事とホテルを楽しみたい。そうして前々から訪ねてみたいと思っていたThe Hiramatsu Hotels & Resorts賢島を予約したのでした。ちょうど先月、軽井沢御代田に滞在して、改めてひらまつ流の食と空間へのこだわりに魅了されたことが大きなきっかけ。去年からすっかりひらまつファンになってしまった私ですが、ついに今回で全てのひらまつホテルに滞在することとなりました。

鳥羽から山間部を越えて再び海のそばに。穏やかな天気になんだか植生もあたたかみのある印象。賢島に着きました。ゴルフ場の横を抜けてちょっとした林になっている場所の細道の先に、低層ながらも存在感のある鈍い光を放つ銅色の建物が見えてきました。ここがひらまつ賢島。バレーパーキングのスタッフも実に速やかに我々を迎えに外に出てきてくれました。

ひらまつホテルズのはじまりの地。全部で8室のとても小さなホテル。ロビーエリアもとてもコンパクト。ここでアラン・ミリアのフルーツジュースで乾杯。とろりと濃密な洋梨は思った以上にすっきりとした甘さが印象的でした。パートナーはアプリコットジュース。あっちにすればよかったという顔をしていたのか「私が飲んでるものを飲みたそうな顔をしてるね」と彼女に言い当てられてしまいました。午後の日差しがリアス式の海岸に当たって、一定のリズムで光をこちらに投げかけていました。

オートロック式のカードキーではなく、あえてメタルの鍵を渡されるのもひらまつのスタイル。本館のツインルーム。二方向に開いたルーバーに取り囲まれた不思議な空間。窓側のルーバーは動かすことができて、開けると英虞湾の風景やテレビを見ることができるようになっています。長方形のゆとりのあるつくり。グレージュとシャンパンゴールドというインテリアコード。ひらまつはどこのホテルも個性が強く雰囲気も異なるのですが、こうした色合いにゆるやかな共通点を見出せる気がします。

円周にライトを配したミラーでおなじみのウェットエリア。他のひらまつホテルに比べると控えめな大きさですが、ダブルシンクで使い勝手は決して悪くありません。

バスアメニティはお茶の香りが爽やかなオムニサンス。そしてミキモトコスメティクスのスキンケア用品が用意されていました。このあたりの良い意味での統一感のなさも面白いところです。パートナーの印象ではひらまつといえば、ブルガリのバスアメニティで、実際に、沖縄宜野座にしても、あるいは熱海や仙石原がそうでした。ひらまつ京都はオリジナルの緑茶の香りのものが用意されていたのですが、あれは開業日だったからなのか、あるいはいまもそうなのでしょうか。

ちなみに部屋には独立式のバスルームがありますが、今回は貸切露天風呂を利用したので、使う機会は特にありませんでした。

部屋のルーバーを開いて窓から外を眺めると、入り組んだ海岸を往来する漁船が見えました。ちょうど今年のはじめにも志摩観光ホテルに滞在するためにこの地を訪れたのですが、そのときよりも海は穏やかに感じられました。鳶や鴉が夕焼けの迫るやや黄味がかった空を飛び交っていました。季節が変わったら果たしてこの海はどのような姿を見せるのだろう。ふと夏の頃に賢島を訪ねてみたい願望に捉われました。そんなことを考えていたら、パートナーが部屋にあるスピーカーでモダン・ジャズアレンジのクリスマスソングをかけました。瞬間的に私の心の中の季節感の逡巡は冬へと定まりました。

まだ夕食までは時間がある。しかしホテルの外へ出かける場所も特に思いつかない。それになにしろ疲れている。私はかねてから気になっていたことをパートナーに提案しました。せっかくだからスパに行かない?

ひらまつ賢島にはタラソテラピーができるCLAYDスパがある。最初に知ったのはホテル雑誌だったでしょうか。タラソテラピーとCLAYDの組み合わせなんて相性が良すぎる、ましてや木々の向こうに英虞湾の美しい海岸線が見えるなんて!と、ホテルスパ好きとしては興奮したものでした。今日はふたりとも短めのコース。無事に予約がとれてよかった。スパのスタッフもとても話好きなふたりで、あたたかい心遣いと伊勢志摩の話に和みます。もちろん技術は言うまでもなく高い。これはスパトリートメントを目的にこのホテルを再び訪れたくなるほどのものでした。スパを出る頃には傾きかけていた夕日はすっかり向こうの方に沈み、静かな月夜へと変わっていました。

部屋で着替えていよいよディナーに向かいます。

最初にシェフから本日の食材の説明が行われました。志摩の猪、大王や多気の野菜、トマト、金時芋、ロメーヌレタス、鳥羽は答志島のトロさわら、宮川上流で栽培されている立派な山葵、松阪牛に合わせる黒トリュフ、そして活きの良い伊勢海老。動き出す大きな伊勢海老を押さえながらシェフはその風土に絡めた説明を行います。私は今日通ってきた場所のひとつひとつを思い出していました。

なおホテルの食事をするところは完全個室制となっています。客室と同じだけ食事する個室がある。BGMは一切なく、ホテル周辺の環境と相まって本当に静かな空間でした。まさに料理に集中できるようなこの場所で美食の時間のはじまりです。

ホタテをベースとしたアミューズブーシュ、そしてホテルにほど近い場所で取れたばかりの猪を使ったパテ・ド・カンパーニュにはじまったディナー。次に運ばれてきたのはフォアグラ。ここに金時芋のピューレと自家製ベーコンがアクセントを添えていました。フォアグラの味わいの軽やかさと後から強烈に突き上げてくるコクは言うまでもありませんが、特筆すべきはその胡麻の香ばしさ。この料理をはじめた当初はゴマがなかったと言います。最初のカリッとした食感、そして瞬時にとろけるすっきりとクセのないフォアグラへの接続はじつに見事なものです。素材の良さはもちろんですが、このホテルの料理人のセンスの高さを感じさせられます。

魚料理はトロさわらのパイ包み焼き。今日の午後に海を見つめていた鳥羽の答志島で獲れたもの。軽やかな食感が嬉しいパイの生地を開くと、脂の乗った鰆のほろりとした食感が訪れます。パサツキはまったくなし。ともすればエシャロットやバターで重たくなってしまいそうなベアルネーズソースも絶妙な仕上がりになっていました。エストラゴンのバランスのよさでしょうか。そうそう食事に合わせて、今回はペアリングをお願いしました。ペアリングといっても私はノンアルコールワインですが、とにかくノンアルコールであっても、実にこだわったものが用意されているのがここの評価点のひとつと言えるかもしれません。この魚料理にはミュスカを。山の空気のように軽やかに抜けていく香りが爽快で、みずみずしい甘さがよく食事に合います。

ホテルの雰囲気から連想させられる以上にクラシカルなメニューが続きます。肉料理はブランド和牛の代表格のひとつ松阪牛。しかしたくさんのブランド和牛が存在するなかで、意外と私たちは食べたことがなかったことに気づきました。ソースは牛肉の旨味を濃縮したもの。柔らかい中にスモーキーさを宿したロメーヌレタスにもしっかりとソースがかかっていて、松阪牛の味わいを深めていました。アクセントを添え、時にそれ以上のものへと昇華させるのは黒トリュフ。ソースに、あるいは削って肉の上に。クリスマスのディナーに食べるものにはその一年が現れていると言ったのは誰だったか…いま私たちは、静かなこの部屋で正統派の肉料理を堪能しています。

肉料理のあとにスペシャリテ。備長炭で焼き上げた伊勢海老。シンプルなのになんという美味しさだろう!殻から立ち上る海の匂い。甘くて弾力があり、それでいて噛み締めるごとにじんわり広がる豊かな旨味。素材の良さと絶妙な火加減が生み出す最高の味わい。こんなにうまい伊勢海老は食べたことがない…。

アメリケーヌソースは海老の味を引き立てるように静かに主張してきます。マコモ茸のしっかりとした食感もまた良し。三重県をもって「うまし国」と称することがあります。感じでいけば「美し国」であり、それは満ち足りた場所の意味といいます。その豊かな土地が生んだまさに「美し食」の時間でした。

メニューに載ってはいませんが…そのようにフランス料理店の給仕がいうときには決まってチーズを期待します。ワゴンで運ばれてきて…と想像していたらまったく予想外のものをオファーされました。それは「ちりめん明太ご飯」に出汁を効かせたもずくといくらをかけて、希少な宮川の山葵を添えたもの。思いがけないことではありましたが、フランス料理でシメのごはん。常識に捉われないスタイルもまた良いものです。伝統を感じさせるようなフランス料理のコース。しかしほっとするごはん。もう満腹近かったのですが、想像していた以上にさらさらと食べられてしまいました。

さくっとした軽やかな食感の苺のケーキ。見た目以上にすっきりとした生クリームにピンク色のソースをかけるとやわらなく香る生姜。贅沢なジンジャーブレッドのようです。黄緑色が鮮やかなピスタチオアイスも添えられていて嬉しい。ハーブティーと一緒にいただきながら願うのはJoyeux Noël!

3時間の美食はこれで終わり。満たされた食事のあとに特有の幸福感と共に部屋に戻りました。彼女とささやかな贈り物の交換。1年間いろいろとすれ違うこともあったけれど、いまこうして同じ時間を生きていられることに感謝の思いを伝えました。

予約しておいた貸切の露天風呂に浸かり、夜空を眺めてから再び部屋に戻りました。長時間ドライブをして、満腹となり、塩化物泉の保温効果によってすっかり心地よい気分でそのままベッドに横になりました。周囲には何の音もない静かな夜。電気を消したら私には珍しいほどあっという間に眠ってしまいました。

朝が来た。窓から外を眺めやると、遠くの空がぼんやりと明るくて、英虞湾は昨夜と変わらない静けさの朝。海沿いで最も好きな時間帯です。どんなときでも日が上る…そんな希望を感じさせられるような気がするのです。身支度を整えて朝食に向かうことにしましょう。

とてもおいしいパンのある朝食というのは幸せな気持ちになります。パンオショコラは熱いコーヒーと一緒に。あるいはバゲットにエシレバターとはちみつをかけて。トマトとベーコンを下敷きにしたエッグベネディクトも豊かな味わい。今日はどうしよう?そんなことを話し合いながら、ひらまつらしい朝の美食を堪能しました。
途中まで順調にいっても、どうせ今からでは東名高速の横浜あたりから東京までのラッシュに巻き込まれてしまう。それだったらホテルでチェックアウトまでゆっくりしていよう。部屋のソファに腰掛けて朝のうたた寝をしたり、船の模型が印象的なロビーから海を眺めたり…贅沢なスローな時間。これからまた約500kmのドライブが待っていることをしばし忘れそうになってしまいます。
チェックアウト前の時間にもういちど貸切温泉露天風呂に入ります。昨夜は夜の闇でまったくわからなかったけれど、木々の向こうに海が見えました。よく耳を澄ませてみると、鳥の羽音、風に揺れる木々のざわめきが聞こえてきて、豊かな自然のなかで湯浴みする心地よさを改めて感じさせられます。空気の冷たく沁みる冬の頃は殊に素晴らしい。東京に戻るのが非現実のような気がしてきました。
しかしやはりチェックアウトの時間はやってきます。素晴らしいホテルステイの常でまた来たいという思いを残しながら、このホテルをあとにします。車で伊勢方面へと進むと偶然通り過ぎる天の岩戸。日本神話の地や歴史的な聖域がそこかしこにあることを改めて知り、その地域の風土や文化を訪ねるという旅のロマンを再発見したような気がしました。
日本旅館のような靴を脱いで過ごせるくつろぎ、スモールラグジュアリーホテルならではの高級感とエクスクルーシブな体験、そしてなにしろ地域の食材を徹底的に活かした美食…ひらまつホテルの元祖と言える賢島は、まさにそのすべてが揃った場所でした。他になにもないからこそ、逆にある意味で最もひらまつホテルらしいくつろぎの世界がここにはあると感じました。また必ず訪ねてきましょう。
また違う季節に…いや、同じ季節もまた良い。そんなことを思い浮かべながら戻る東京への旅路。この長さもまた我々を再びの賢島への旅へと誘うのでした。
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