シャングリ・ラホテル東京宿泊記〜無駄に過ごせることの喜びを感じる滞在

元妻との別れが決定的になったのは昨年の12月のことでした。

プロポーズをして、婚姻届を書いて、新しい生活が始まっていって…しかし私はそのような流れとはならなかった。今から考えたら、そのように自分の人生が展開していったことは必ずしも悪いことばかりではなく、むしろ最近では肯定的に捉えられるようにさえなっているのですが、様々なことを考え、悩み、なかなかに苦しい年末でありました。さらにちょうど同じ時期に同居していた家族を失ったことも重なって精神的に厳しい状態が続いていました。

どういうきっかけだったのかは覚えていませんが、今年のはじめに、シャングリ・ラ東京のレストラン・ピャチェーレにイタリア料理を食べにきたのでした。思い返してみると、そういう心境であったから、どこか優しさを感じさせるあの味わいと、煌びやかで華やかな雰囲気をもって自分を鼓舞させたかったのかもしれません。

年明けから段々とホテルステイも再開させてきました。離婚も死別も日常性の延長上にあり、そうした文脈から自分を切り離しながら、思いのままに好きな空間に身を置くことによって救われる思いは少なからずありました。まさにホテルという場所のもつ魅力を感じずにはいられなかったのですが、同時に、どこか満たされないものが常につきまとっていたようにも思います。

今回シャングリ・ラ東京に滞在したのはまったくの偶発的な要素によるところが大きいのですが、自分自身のなかのそうした空白が満たされて、とても心安らかな滞在をすることができたのです。改めて考えてみると、今回の滞在は、そうしたいまの状態を追認するような時間だったように思えてきます。

いつものようにホテルのエントランスに車を停めたら、シャンデリアやキラキラと煌びやかな手摺りが印象的なエレベーターで高層階へ。扉が開くと、モダンでありながらクラシカルで、どこか19世紀の華僑の邸宅のような、東洋と西洋が混じり合う豪奢な雰囲気が漂います。

広く取られた窓から太陽の光が線状のシャンデリアを照らし出し、大理石の床に柔らかな明るさをもたらしていました。あのときは冬の乾いた空でしたが、いまは湿気を含んだ夏の空。外を歩くと蒸し暑さに滅入りそうになりますが、あのときの心模様とは明らかに質の違う気怠さであるとは確信をもって言えます。

少し早く昼過ぎくらいにチェックインを済ませて客室まで向かいましょう。今日は角部屋のプレミアルームへ。

華やかなロビーからの連続性を感じさせながらも、驚くほど落ち着いた雰囲気のある客室。特にどこにも出かけることもなく、仕事も持ち込まず、ただただ無駄に時間を過ごしたい。窓の外には夏の東京の青空。見下ろせば東京駅へと出入りする列車が見えました。

バスルームを覗いてみると、間接照明が落ち着いた印象を与えながら、上質感のあるベージュの大理石と響き合います。ビューバスの窓の向こうにはベッドルームと同じ東京の景色が広がります。シャワーはロクシタンのバスアメニティと共に。ジャスミン&ベルガモットの柔らかい香りが心地よく、穏やかな気分にさせてくれるような気がしました。

ふと思い出すのは、今年の年明けしばらくしてから、大好きなパークハイアット東京の最上級の部屋であるプレジデンシャルスイートにひとりで滞在したときのこと。とてもじゃないけれど、使いこなせないほどの巨大な空間に身を置いて、誰にも気兼ねしなくていい開放的な喜びと、それにも関わらず寄せては返すように訪れる虚しさを同時に味わっていました。

立派すぎるほどの大理石のジャクジー。タオルもアメニティも時間さえも遠慮なく使える。やはりひとりはいいものだ。もう妻の人生設計への積極的なコミットメントの必要性もないし、そのために自分の人生観や価値観を曲げる必要もない。自分が無理をしていたことに気付きました。でも、それでも、否応なしに心に湧き上がってくるこの虚しさはなんだろう。

なにかが燃え尽きてしまったような、ある種の頽廃的な心模様とでも言いましょうか。誰かの人生に自分自身を投じることは、とても大きなエネルギーを必要とするようです。そしてそれが裏切られたときに、きっとこういうふうな気持ちが湧いてくるのかもしれません。

それからというもの私は、もう誰かに心を配ることはやめよう、自分の勝手気ままにしていることがいかに楽しく素晴らしいことか、と自分に言い聞かせながら、これまでにはしなかった、ひとりならではの贅沢をあれこれしてみました…

しばらくしたら、このホテルのラウンジへと降りていきます。

東京と、ロンドン、パリ、香港、シンガポールのシャングリ・ラホテルのレシピを使った「飛行機に乗らなくても世界を旅する」アフタヌーンティー。たしかに今は世界を気軽に旅できないけれど、世界の都市と東京は結びついている。

コロナウイルスの脅威によって世間全体が自粛の方向になるなかで、私もステイホームの生活を送るようになりました。この期間を通じて、いろいろなものから遮断されて、思索に耽る時間が以前よりも増えました。年末に様々な不幸が重ならず、また妻とも別れていなかったとしたら、果たしていまはどのような生活を送っていたのだろうと思ったりもしました。

ひとりの贅沢。

しかし同時に、誰とも感動を分かち合えないことを意識したときに、心のなかに大きな空洞があるような心地がしました。誰かと結びついていたいという連帯を求めていたわけではありません。そうではなくむしろ、そうしたものの不可能性を前に、妙に冷めた自分がいたという方が正しいでしょう。

普段、というか、これまでだったら、きっとこんなもの頼まなかったと思います。でも今日私はこの場所でグラス傾けている。そして私の横にはそれを美味しそうに堪能している人がいる。

ふたりの贅沢。

それはあまりにも突然の自分とまったく似たような境遇の人との邂逅。はじめて出逢ったときの感覚は、人と結びつくことの不可能性の冷たさに対して投じられたあたたかい光のようでした。すべてを語らずとも理解できるところの多い彼女の優しい言葉になぜか涙がとめどなく出ました。

おぼろげながら私が感じたのは、ひとりでいる喜びは、誰かと一緒にいることに支えられているということでした。感動を分かち合おうとすることと、自然と同じ感覚が共有されることとは、同じであるようで、まったく違うものですね。

夜が更けて、夏の朝焼けと動的な東京の景色。

中華粥と一緒に出してもらったシャングリ・ラのメロンジュースはとろりとした食感と爽やかな甘さ。なにげない会話を交わしながら、なにもしない時間を過ごす。客観的にみれば、それは無駄な時間かもしれませんが、いまの私にはとても大切な時間。

過去を否定することはできません。しかし、もっと力を抜いて、新しい時間を塗り重ねていくことはできるはずです。

ひとりの贅沢を否定するのではなく、ひとりの贅沢とひとりの贅沢が重なるところにあるふたりの贅沢を探していけばいいのでしょう。それがどこまで実現できるのかは、時計の針を進めた先から振り返ったときにしか分かりません。しかし少なくとも、この夏にシャングリ・ラ東京で過ごしたこの時間は、かけがえのない、穏やかで幸せなひとときであったことに間違いありません。

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