それは1949年の12月24日、いまで言えばクリスマスイブの日のこと。国際観光ホテル整備法に基づいて、観光庁長官が日本全国に「政府登録国際観光旅館」を登録することになりました。まだ戦後まもなくの頃、サンフランシスコ平和条約の締結より前の話ですが、この頃から戦後の日本の観光地の歴史は息づきはじめたのです。まだ海外旅行は一般的ではなく、程よい距離感にあり、かつ「ここではないどこか」を満たしたエキゾティックな温泉地が夢の場所であったことは想像に難くありません。
温泉地は、ハネムーンという言葉のない時代の新婚旅行や、社員一同連れだっての社員旅行といった需要に支えられた華やかな時代を迎えます。しかし海外旅行の自由化やライフスタイルの多様化のなかで、日本各地の温泉地は、一部の例外を除いて、徐々に斜陽化していったのです。
いまでも、「〜温泉」と名のつくところに足を運ぶと、打ち捨てられた巨大な50年代〜70年代頃の大規模な温泉旅館の廃墟(群)を見ることがあります。熱海もまさにそのような斜陽化した温泉地というイメージが少なからずある地域という印象を私は持っていました。しかし近年では、再活性化がみられるようになり、従来の旅館などに加えて、新しいスタイルの旅館や温泉ホテルが続々と開業するエリアになっています。
その熱海の東側の小高い丘の上にある「ATAMIせかいえ」はそのような新しいスタイルの旅館の代表的なもののひとつです。今回(といっても滞在は数ヶ月前なのですが)は、そんな新しい波の中にある熱海の旅館についてリポートしてまいります。
オーシャンビュープレミアム月の道
ATAMIせかいえの客室は、本館と新館のふたつの棟に分かれていて、今回の滞在は「月の道」という名の新館の方の客室です。こちらの旅館の特徴としては、基本的にすべて「洋室」であり、また全客室に展望温泉露天風呂が付いているというところです。
本館から「月の道」までは渡り廊下を通っていくことができます。
月の道のエントランス部分はこのような空間になっています。本館の方のフロントもそうなのですが、いわゆる昔からの「温泉旅館」や「温泉ホテル」などのような雰囲気とは一線を画す雰囲気があります。このあたりのモダニティは個人的には好みですが、古典的な風情にはやや欠けるかもしれません。
なおチェックインは客室にて行います。
客室のエントランスを入ると、正面にはウェットエリアと展望露天風呂があります。そして左側にベッドルームとリビングスペースが一体となった空間があります。客室自体は総じてゆとりがあり、インテリアコードもフローリングにベージュ系のソファと落ち着きのあるものです。
温泉ホテルのイメージよりは、むしろモダンなリゾートホテルのインテリアに近いものを感じます。しかし外資系のそれというよりも、どことなく「日系」のモダンさを感じます。この感覚は、The Okura Tokyoとかキャピトル東急あたりに感じるそれに近いものです。この客室はさほど「和」を打ち出すものではないのですが、それでもこういう感覚を持つというのは何故なのか、気になります。
反対側にはベッドスペースとデスクがあります。
ハリウッドツインに近いタイプで、枕がやや貧弱な感じがしますが、ベッド自体の柔らかさはバランスがよく、寝心地はなかなか心地よいものです。空気清浄機やタブレット端末式の客室案内なども用意されていました。
エントランスの方に戻ると、このようなコーナーが設けられています。
ネスプレッソのバリエーションの多さがまず目に入ると思います。これほどの種類を用意しているところは私が今年滞在したなかでは、パークハイアットのディプロマットスイートくらいのものです。また緑茶やほうじ茶なども用意されています。
下段には小さな冷蔵庫があり、瓶ビールやフルーツジュース、ミネラルウォーターなどがコンプリメンタリーで提供されています。このあたりの充実度の高さは嬉しいところですね。
展望露天風呂も見てみましょう
ATAMIせかいえは、伊豆山地区という小高い丘の上に位置しています。そのため潮風かおる海のそばというわけではありませんが、パノラミックな相模湾の景色を眺めることができるようになっています。この眺望が特にイメージとして活用されているのは、屋上のデッキラウンジでしょう。しかし快適性という意味では、それぞれの客室に備え付けられている展望露天風呂をおいて、他にはないと言えましょう。
最初にあるのはベイシンエリア。その奥にはシャワーブースがあり、さらに奥に展望露天風呂が見えています。こちらもダブルシンクで使い勝手はかなりよく、ミラーも大きめというところも嬉しいものです。
バスアメニティもなかなか充実していて、LEAF&BOTANICSというアイテムで揃えられています。香りも使い心地も全体的にはさほど記憶に残るようなものではありませんが、ある程度のレベルの温泉旅館でもバスアメニティにはさほど力を入れていないケースが多いなかでは、かなりこだわっている方だと思います。
いよいよ展望露天風呂です。
ひとりだと少しゆとりがあるものの、ふたりだとやや窮屈かな、というくらいのサイズ感のものです。源泉は温度が高いので、うまく調整しながら入浴します。我々が訪ねたときは暑い日だったのですが、冬場などは特に気持ちが良さそうです。また誰にも邪魔されることなく、温泉を堪能しつつオーシャンビューも楽しめるというのは、贅沢な時間だと思います。
展望露天風呂の横の方には広めのデイベッドが置いてあります。ここでくつろぐのもまた気持ち良いものです。しかしひとつ難点を言えば、どうしても屋外にあるものなので、やや汚れが目立つところでしょうか。気にしなければ気にならないというくらいのものですが、神経質な方だと嫌な気持ちがするかもしれません。
ダイニングと花火について
ATAMIせかいえのダイニングは2箇所あり、ゲストはそれぞれ滞在している客室のある建物の方のダイニングでディナーと朝食を取ることになっています。我々が滞在した「月の道」のダイニングの内容は鉄板焼きとなっています。
それぞれの客席はブースで仕切られつつ、鉄板のカウンターと対面するという変則的な半個室型になっています。この空間の作り方はプライバシーがあって非常に良いと思います。スタッフの方もきさくで感じの良い方が多いというところも評価できるところです。
料理のクオリティも高く、総体的には満足度が高いものでした。ただし通常のコースだと、あまり「熱海らしい」料理が用意されているというわけではありません。しばしば温泉地などでは、地元で取れた素材を使った料理を売りに出しているところも多いのですが、こちらはそうではないというのも特徴だと思います。このあたりは評価が分かれるところだと思いますが、個人的にはやはりもう少し地域性を打ち出してもいいのではないかと思いました。
熱海といえば年間を通して10回以上も開催されている花火大会でも知られているところだと思います。熱海の市街地にある温泉であれば、宿泊施設から直接見たり、あるいは散歩しつつ花火を見にいけるのも魅力のひとつかと思います。
ATAMIせかいえの場合は、前述のとおり、熱海の市街地からはやや離れた場所にあるので、客室やレストランなどから花火を見ることはできません。そのためゲストのために大型バスを仕立てて、希望者が宿泊施設向けに確保されたスペースで花火を見ることができるようになっています。私は普段は花火大会に行ったりすることはないのですが、このときはちょうど花火大会の開催日に重なっていたので、せっかくだからと妻と一緒に見に行ってみることにしました。
会場はかなり多くの人でごった返していましたが、一応、ATAMIせかいえのゲストは専用のスペース(小さな椅子を置くことができるようになっている)でみることができるのは特筆すべき点でしょう。熱海の花火大会は海上に花火を打ち上げるのですが、海岸の公園の一区画がそのまま専用スペースとなっていて、そうとう迫力ある眺めを見ることできるようになっています。
椅子は簡易的なもので、かなり人も多いため、圧迫感はあります。しかしそれでも専用の区画で花火をここまで間近で見ることができるのは良いと思います(なおこの専用スペースは、熱海の他のホテルや旅館のゲストとも共用となっています)。
全体的な評価
しばしば温泉旅館の三大要素は「客室・温泉・料理」だと言われます。これらのなかで、ATAMIせかいえの特徴を個人的に評価するならば…
- 客室:モダンで快適かつアメニティが充実している。
- 温泉:オーションビューの展望露天風呂が各部屋についている。
- 料理:あまり地域性に捉われない自由さがある。
以上の点を挙げることができるでしょう。
これらのうち、温泉については、近年の温泉旅館にも快適なものもあり、特に「ATAMIせかいえ」ならではのものとしての主張は強くありませんが、快適性は高いです。
あとのふたつ、すなわち客室と料理については、評価が分かれるところだと思います。どちらも旅館のそれというより、もはやモダンなホテルとしての趣の方が高いものです。これとは別に、モダンにするにしても、もっと温泉旅館らしく「日本的なもの」を強調するというのも、それはそれでひとつの魅力ある宿として成立するとは思います(個人的に伊豆エリアでこのような温泉旅館をイメージすると、真っ先にABBA RESORTが思い浮かぶ)。
しかしここは「伝統性」や「地域性」といった温泉旅館の文法を崩していくところがコンセプトなのだと思われます。実際にゲストの雰囲気も、伝統的な高級温泉旅館とはかなり異なる気がしました。全体的に若く、軽い感じがしました。これはあくまでも個人的な感想ですが、私は、温泉旅館ならばもう少し落ち着いた雰囲気のところの方が好みだと思いました。花火大会も含めて、熱海温泉のモダニズム的な変化の最右翼たるホテルに滞在してみて、温泉旅館の魅力とは何か?という問いに何度も遭遇した私は、なぜか伝統的な日本の温泉旅館を訪ねたい気持ちにさせられました。