2023年2月 金谷ホテルにて

佐藤愛之助、生まれはロンドンから少し北にいったクラプトン。その珍しい苗字がのちの彼の運命をどこまで決定的なものにしたのかについては議論の余地があることでしょう。いまよりもずっと社会的な流動性の低かった時代のこと、オックスブリッジでの学位取得が困難であることを見越して、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンを優秀な成績で卒業した彼は、遠い異国の地を心に抱いて海へと船に乗り込み、公使館の通訳生として横浜の港に降り立ちます。文久2年のことでした。アーネスト・サトウ、それが生まれ持った名前です。サトウは祖先を遡ればスラブ系の希少性。その彼が現代の日本で最も多いこの苗字と同じ響きをもって生まれ、この国に憧れ、19世紀のこの地にやってきたのは果たして単なる偶然なのでしょうか。サトウは自らを佐藤愛之助と名乗り、多くの日本人と交流を深め、この国を愛したと言います。

サトウは横浜からたびたび美しい自然を求めて、北へと旅をしましたが、特に奥日光に魅せられたと伝えられています。彼の紹介により日光は西洋からの旅人にとって魅力的な避暑地として知られ、中禅寺湖畔には多くの立派な別荘が築かれるようになります。それから100年以上の時を超えていまも同地にはそうした建物が残り、ホテルファンとしては見逃せないリッツ・カールトンもそうした自然の美しさに魅せられた人々のロマンを現代的に追体験できる場所としての地位を築きつつあります。

さて、少し話が脱線しましたが、今日話したいのは、サトウやリッツカールトンの魅力ではなく、その時代の空気感をいまに伝えるもうひとつの魅力的なホテルのことです。

私は母と祖母を連れて関東平野を北へと旅していました。いや、旅とはやや大袈裟かもしれません。きまぐれなドライブと懐かしい土地を訪ねたいという非常に些細な動機によって、ふとこの古めかしいホテルを予約したにすぎないのですから。

日光金谷ホテル。中禅寺湖から激しく落ちる華厳の滝から続く大谷川の流れが、二荒山神社の手前に至るところに架かる著名な神橋のすぐ近くの丘の上に、このホテルはあります。ひと目見てそれとわかる古そうな建物。想像していたよりも小さな全容が目に入ってきました。

敢えてそうしているのか、あるいはたまたまそうなのかホテルの前のロータリーは舗装されておらず、それが却ってこの昔ながらの雰囲気をより引き立てている気がしました。悪く言えば整備されていないとも言えますが、その辺りはこのホテルに何を求めるかに依存するのかもしれません。単に木材が劣化したというだけではなく、なにかいくつもの時の流れを重ねてきたような独特の重さを感じる入り口の回転ドアは、想像していたよりも遥かに軽快に回り、宿泊客をホテルの中に誘います。

少し訛りのある素朴な雰囲気のベルガールが我々を迎え、荷物を運びつつ、チェックインへと案内してくれました。円筒形のポストとなぜか置かれたロンドンタクシーがレトロな雰囲気。でも我々はこれらよりも遥かにこのホテルの歴史の方が古いことを知っています。

良くも悪くも(見る人によるでしょう)野暮ったい雰囲気のフロント。クラシックホテルといえどもリノベーションが進むなかで、この古く狭い雰囲気を残しているのは貴重と言えるでしょう。チェックインは円滑に進みます。伝統あるホテルなのにどこか鄙びた旅館のような気取らない雰囲気と対応が印象的でした。この素朴さは個人的にいつまでも続いてほしいこのホテルらしい色合いだと思うのです。

1871年のことです。開国から15年あまり経ち、外国人の旅行者も少しずつ増え、とりわけ東京からほど近い日光はよく知られた人気の観光地として知られつつありました。アメリカの宣教医ヘボン氏もそうした観光客のひとりとして著名な日光の見学に来ていたのでした。ときは明治4年。外国人の宿の手配はそう簡単なものではなく、ヘボン氏も宿を見つけることができずに途方に暮れていました。東照宮の雅楽の演奏家であった善一郎氏は、そんな様子を見かねて、彼を自宅に泊めることを決意しました。こんな小さな出会いが日本におけるホテルの歴史の始まりです。

この善一郎氏の善意に感激したヘボン氏は「ヘボン式ローマ字」の発明のかたわらで、日光を再び訪れて、彼にこの地に外国人が宿泊できる施設をつくることを勧めたのでした。ヘボン氏を自宅に泊めてから2年後の1873年。善一郎氏は「カッテージ・イン」というホテルをこの地に創立。のちに自らの苗字からとった「金谷ホテル」へと改称し、150年の歴史を紡いでいくことになりました。言うまでもなく帝国ホテルよりも遥かに古く、現在残っている日本国内の最古のホテルです。

なおここで注目したいのは「カッテージ・イン」という名前。Cottageは「田舎の小さな家」とでもいうべきものだし、Innとはせいぜい2階建くらいの小さな宿屋を連想させます。要するに、いまの水準で考えるならば民宿に近いような性質のホテルであったと考えられます。このあたりは現存する日本で2番目に古いホテルである富士屋ホテルとはやや性質が異なります。あちらは「本格的なリゾートホテル」を目指して作られたのに対して、こちらはそもそも素朴であたたかい雰囲気がその源流にあるのですから。

なるほど、そう考えてみると、現在でもそうしたホテルの色合いは受け継がれているようにも思われます。富士屋ホテルに泊まったときには堂々たる伝統的なホテルの矜持を感じさせられましたが、このホテルには民宿的な気取らない素朴さがあります。19世紀から21世紀へと移ろうなかでも、ホテルはその役割を時代に合わせて変えつつも、創業当初の世界観をいまに伝える…そこになんともいえないロマンを感じるものです。

古いホテルの廊下というのはえてして昔を連想させるものですが、ここ金谷ホテルも多分に漏れずその風格を漂わせます。先ほどのフロントまでそれほど遠い距離があるわけではないのですが、その天井の高さや赤いカーペットが奥行きを感じさせます。日本開国直後に建てられた西洋人の邸宅はしばしば保存されて、入館料を払ってそのなかを見物できるようになっていますが、このホテルは実際にそこに泊まることができる。その目的を変えることなく3つの世紀を超えていくのはやはり並大抵のことではないような気がしてくるものです。

チェックインを済ませた我々はそのまま部屋に案内してもらいました。カードキーではなく、大きな木の板にくくりつけられた鍵を使って扉を開きます。

手付かずの古さ。部屋に入ってみて驚きました。作りものではないアンティーク家具。やや無機質とも思えるようなインテリアの雰囲気。古めかしく歪んでいるガラス窓。狭い浴室。そして蒸気ラジエーターを使ったこれもまた年代物のセントラルヒーティング。とりわけ最後のふたつにはこのあと泣かされることになるのですが…狭い浴室なので、洗面台もせまくて全体的に圧迫感があります。現代のホテルであれば、たとえばシャワーブースに割り切るか、場所によっては独立式のバスルームになっている場合もありますが、ここはユニットバス。しかも洗面台のスペースがとても狭い。またセントラルヒーティングが効きすぎていて、頭がぼーっとする暑さになり、寒い外の空気を入れるべく窓を空けたほどでした。しかし朝には切れていて、むしろとても寒い中で起きることになりました。この不便さまで含めて歴史的なホテルと捉えて楽しむことができれば良いかと思いますが、万人に勧められるわけではないように思っています。ただしこのホテルの名誉のためにここで改めて強調しておきたいのは、設備はともかくとしても、ホスピタリティや食事の質などは素晴らしいものがあります。

夕方に近くまで散歩。じつは昼に周辺の観光施設は歩いてみたので、夕方は本当に坂の下に降りる程度にすぎません。そもそも高齢の祖母はさほど長い距離を歩けないので、これくらいの気楽な散策くらいがちょうど良いのだといつも言います。再び坂を登りきるとホテルの玄関が見えてきます。夕暮れ空のどこか物寂しい雰囲気に、古めかしいホテルの建物に灯が点いて、どことなくあたたかさを感じられました。おかえりなさいませ。寒空の下を歩いた後で、そう声をかけられると、やはりほっとします。

どうして日本のクラシックホテルのフランス料理には虹鱒が出てくるのだろう。やや甘みのある香ばしいソースをまとった虹鱒の美味しさは、和洋折衷の美味しさ。明治時代の名残なのでしょうか。臭みはまったくなく、ナイフが綺麗に通り、さらりとした口当たりに日本的なまったりとしたコク。

そういえば富士屋ホテルにも虹鱒が名物のひとつとしてありました。共通点がどちらも明治時代に多くの西洋人の観光客を迎え入れていた山のリゾートであること。しかしそれ以上にもしかしたらその縁戚関係にも関係があるのではないかという推測も働かせたくなってきます。

ヘボン氏と交流を持った金谷善一郎氏には3人の息子がいました。長男は金谷ホテルの経営を引き継ぐことになり、三男はのちに鬼怒川温泉ホテルの館主となります。そして数奇な運命を辿るのは次男。金谷正造氏は婿養子として箱根の山口家に入り、山口正造として同地の老舗ホテルの2代目の支配人となります。この名前を聞いてピンとくる方はかなりのクラシックホテル好きと思いますが、そう、あの富士屋ホテルの支配人こそが山口正造氏。彼の肖像はいまも同ホテルのメインダイニングの柱から従業員に「にらみ」を聞かせていることでも知られています。金谷ホテルという日本最古のホテル。そして富士屋ホテルという日本で2番目に古いホテルには不思議な縁があります。建物の古さという意味ではある意味で富士屋ホテルには日光金谷ホテル以上のものを感じるところも多く(金谷ホテルの本館は増改築を繰り返しているのです)、両者には共通点と対照的な部分が色々あるので、いずれにしても、ホテルファンであれば、どちらも一度は訪ねてみていただきたい歴史の宝庫であることに間違いありません。

それにしても虹鱒は美味しかったです。年配のスタッフの対応もあたたかくて、祖母と母と三世代の会話もなんだかおだやかな心地の良い夕食でした…

もはやいろいろなところに古さを感じて、これくらいではあまり驚くこともないのですが、ベッドスプレッドがついているホテルのベッドも久しぶりにみました。以前は多くのホテルでよく見たし、その色合いが部屋のアクセントになっていた面もあるアイテムですが、デュべスタイルが普及して、それがある種の(現在向けにアップグレードされたという意味での)快適性の証左となってきた頃から急速にその数を減らしている気がします。つまりベッドスプレッドのかかっているベッドは古いベッドをそのままである…ホテルの基本的な機能は「食べると寝る」だと思うのですが、その寝るに対してどこまでホテルが力を入れているのか、やはりその点は注目せざるを得ない部分と言えましょう。

日光金谷ホテルのベッドは十分に手入れされていることはわかるのですが、個人的には寝心地はさほど良いとは思えませんでした。しかしそれでも良いような気もしました。なんでもかんでも歴史的な…という修辞が適切とは思えませんが、その歴史性に免じて、そしてその歴史を紡いでいこうとするあたたかいスタッフの対応によって、なんだかそれでも良い、と思わされてしまうのです。(ただしやはり万人には勧められないし、どこかのタイミングでせめて設備を整えた方が良いような気もしますが…)

さっき廊下を歩いていたときにみた昔の写真。皇族もいれば、米軍の将校もいるし、著名な映画のスターや政治家も…なんだかそんな昔の時代の夢を見られるような気がしました。

翌朝。オムレツにトースト。そしてコーヒー。丁寧につくられた味わいでした。それは寒くて白い日光の朝でした。ホテルのスタッフは相変わらず素朴でにこやか。それは歴史の重さを忘れさせるような軽やかな気取らない雰囲気でした。これがこのホテルの最大の魅力だと私は思うのです。

150年の歴史…もう開業と同じ時代を生きた人は誰もいません。でも開業のときの民宿的なあたたかさはいまにも受け継がれているのだと思います。

チェックアウトを済ませて、車を出します。

数人のスタッフが外まで出てきて、手を振りながら見送ってくれました。そのあたたかさが150年の歴史を引き継ぎ、次の100年へとつないでいくのでしょう。

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