夜の10時近くなってそろそろ搭乗のアナウンスが流れる頃。想像よりもはるかに短い時間で出国の手続きを終えた私は、夜の空港のターミナルでハーブティを飲んでいました。本当はコーヒーでも飲みたい気分だったのだけれど、夜間飛行とカフェインはどこか私のなかで相容れないものがありました。
それにしても寂しいターミナルです。夜の空港には独特の疲れたような雰囲気が漂うものですが、これは昨今の社会情勢の反映でもあるのかもしれません。海を越える人々の往来が回復しつつあるとは言いつつも、まだ完全ではありません。それは飛んでいる飛行機の本数についても言えることでした。私の本来の目的地はニュージーランドのオークランド。でも今日は直行便はありません。ほとんどやっていない免税店。あまり人がいないのに妙に巨大なターミナルビルの空間が、これから見知らぬ土地へと旅をする私をどこか心細くするような気がしました。
搭乗開始のアナウンスと共に人々がいっきに列をなしました。交わされる言葉は聞き慣れた発音や言い回しとは少し異なる英語。夜空と赤道を越えて南の地へ。見慣れた景色はあっという間に見えなくなってしまいました。
たどり着いたブリスベンの空港は近代的ですっきりとした雰囲気の場所でした。私はボンバルディアというとリージョナルジェット機を真っ先に連想するのですが、空港から中心市街地へと向かう鉄道の車両も同社の新世代の列車。滑らかな加速に反してのんびりと見知らぬ街の郊外住宅地を抜けて、いよいよセントラル駅に到着しました。明日の早朝にはオークランド行きの飛行機に乗る。そんなわけで便利な場所にあるホテルに泊まろうと思ったのでした。
私にとってウェスティンは恵比寿の重厚な雰囲気が真っ先に連想され、あるいは都ホテルとかモアナサーフライダーとかウェスティン朝鮮ソウルのような、歴史あるホテルと提携している印象が強いのですが、ここはとても近代的な雰囲気。そういえば最近できた横浜のウェスティンともどこか似たような「いま風の」ホテルです。狭い敷地のなかに立体的なバレーパーキングがあり、屋外プールがあり、カフェがある。私はどっしりとしたグランドホテルが好きですが、このような狭さをいかに効率的に使うかを考えた空間をみると好奇心がとても刺激される想いがするものです。
やたらに早口で話すスタッフから部屋の準備はまだできていないので、クラブラウンジで待つか、どこか散策でもしてきては、と提案を受けて、ひとまずラウンジに行くことにしました。誰もいないラウンジ(スタッフもいませんでした)。妙に寂しい気持ちになりながらも、ひとまずジンジャービアを片手に窓際の席に。見下ろすと、そこにはユニークなインフィニティプールが見えました。
この季節のクイーンズランドは温暖ではありますが、とはいえさすがに、私はプールで泳ぐほどのあたたかさではないと思いました。実際に泳いでいる人はまったくいなかったのですが、しばらくするとカップルが現れて、冷たい水辺で愛をあたため始めました。早朝に降っていた雨が止んでから、しばらくはどんよりとした雲に覆われていた空にようやく陽の光が見えるようになってきました。私は少しだけブリスベンのCBDを歩いてみることにしました。
あまり美味しくないミートパイと美味しいコーヒー。妙な組み合わせの昼食を済ませてホテルに戻ると、部屋の準備が整っていました。高層階とはいうものの、ビルに挟まれていて、圧倒的な眺望が望めるわけではありません。しかし程よく快適に過ごせる現代的な雰囲気がそこにはありました。慣れ親しんだヘブンリーベッドにホワイトティーのアメニティ。見知らぬ街に来たときに変わらないものに安心感を抱くということは確かにある、そんなふうに思っていました(そのぶん、慣れ親しんだ場所と比べてしまう自分もいるのですが…)。
特になにかをするわけでもなく、遠くに見える澱んだ川を眺めているうちに日が暮れてきました。およそ都市にはよく見られるようにこの街もまた遅くまでビルに明かりが点いていました。シャワーを浴びたあとのエアコンの風が冷たく感じられる夜でした。
翌朝早くホテルをあとにして、再びブリスベン空港へ。空港のラウンジは多くの人で混雑していましたが、あまり長い時間滞在するわけでもないので、軽くコーヒーだけを飲んで搭乗口へ。ほぼ満員の乗客と共に飛行機はさらに東へ…
乱気流を抜けたあとの雲の切れ間から陸地が見えると、前に座っていた子どもが大きな声をあげました。小太りの夫婦がその様子をみながら、そろそろ着陸ね。と会話を交わすとき、私もまた小さな小窓から草原と水辺に太陽の光が反射するのを見ました。絵に描いたようなニュージーランドの光景。私はおそらくあの緑の大地を眺める余裕はないけれど、それでも遠くへ来たという実感を持たずにはいられない美しい景色でした。
ほどなくしてオークランドの空港に到着。そのままタクシーに乗り込みます。ムンバイからの移民というその運転手は当たり障りのない会話を私と続けながら、オークランドの市街地へと車を進めます。
もうそろそろブラックフライデーなんだ。うちの子どもたちにもなにか買ってやろうと思ってるんだけどね。お客さんも絶対にクイーンズタウンに行った方がいい。あの素晴らしい湖を眺めながらいっぱいやるのが最高なんだよ…
そのブラックフライデーの渋滞のためか市街地に近づくにつれて混雑はどんどん激しくなってきました。おまけに突然降り始める雨。
いや、まいったよね、こんなに混んでるのはひさしぶりなんだ。ここのところ政府はタクシーの運転手にいつも辛く当たるんだよ。あそこじゃお客さんを拾っちゃいけないんだってさ…それにしてもお客さんは我慢強い人だね。こんなに混んでるのに文句もいわないなんて!
タクシーの運転手がなぜか私の態度をしきりに褒めてくれているあいだ、私の頭のなかにあったのは道行く人たちの姿とこの街の様子。明日はここを通って仕事にいかなきゃいけないのだけれど、なんだか数年以来に緊張でふさいだ気持ちになってしまいそうだ。そんなことを考えながら、クリスマス前のショッピングに興じる人たちの楽しそうな姿を眺めていたのでした。思い返せば今年は、いや今年も、何度もそんなことがありました。
新年を迎えるたびに、今年こそは平穏無事に、ずっと幸せな毎日が続いてほしい。そんなことを思うけれど、結局、幸せなこともあれば、不幸なことや不安なこともたくさんある。それを思い返すたびに禍福は糾える縄の如しという想いを新たにするのでした。
IT企業の新しいオフィスが集積する地域を抜けると、いよいよ目的地のホテルに到着。パークハイアットオークランド。車寄せにタクシーをつけると、じつに丁寧なスタッフがチェックインに案内してくれました。とにかくゲストとコミュニケーションを取ろうとするいつものハイアットスタイルにほっとさせられます。第一印象がホテルの印象を決める、ということはこれまでに何度も私が感じてきたことですが、ここでもこのホテルに対してまずはとても良い印象を持ちました。
もともとパークスイートルームを予約していたのですが、スタッフに聞いてみたところ、こちらの部屋タイプはハーバービューではないとのこと。今回は連泊なのでせっかくだったら眺望の良い部屋だと嬉しいと急に思い直して、スタッフと相談してみました。
カテゴリーとしては下がるけれどおすすめのルーフトップルームがありますよ。ただし準備に少し時間がかかるので、それまでラウンジでなにかお飲み物でも召し上がりながらお待ちください。
文句なしに満たされるホスピタリティに心打たれながら、私はラウンジでしばらく時間を潰すことにしました。
停泊しているボートを眺めるラウンジ。そう、このホテルはヨットハーバーの中心に位置していて、私にとっては馴染み深い横浜のインターコンチネンタル横浜Pier8を連想させられるような立地。空の色も見える景色も人々の雰囲気もすべて違うのに、なぜか港町の解放感はどこか似ている。そんな想いを宙に浮かべながら、Very Cranberryというモクテルの酸っぱさを感じます。キックボードに乗った少年たちがヨットハーバーの先端の方からホテルの横を抜けて、市街地の方へと騒ぎながら走っていきました。私は早くそんな軽やかな気持ちになりたいと思いながら、明日の準備のために電話をしていました。
しばらくすると、先ほどチェックインを担当してくれたスタッフが戻ってきて、部屋の準備が整ったとカードキーを届けにきてくれました。
カテゴリーこそスイートではないのですが、スイートと同等の部屋のつくりとルーフトップテラスが素晴らしい、おすすめの部屋ですよ。誇り高い表情でアピールしたいことを伝えてくれると、私の方までもなんだか快適な滞在が約束されたような自信を持てるものです。長いソファが置かれたリビングルームは木目を多用した落ち着いた雰囲気でした。テーブルの上にはスパークリングのミネラルウォーターと極めて甘いパブロバが用意されていました。
ベッドルームはリビングルームと隔てられていて、奥にウェットエリアが控えているというつくりになっていました。ゆるく手前側に角度のついた窓が個性的で開放的な空間をうまく演出していました。ベッドの大きさも十分にあり、とても快適な柔らかさで、安定のパークハイアットの質。
ウェットエリアは卵型のビューバスと独立形のシャワーブース、そしてダブルシンクのベイシン。ホテル自体は低層ですが、周辺に高い建物がなく、最上階ということもあり、お風呂からの眺望はなかなか素晴らしいものでした。
テラスに出てみました。この季節の東京であれば、もうすでに外は暗い時間。しかしここニュージーランドは19時を過ぎてもまだ昼のように明るい。ここからヴァイアダクトハーバーに戻ってくるクルーザーが見えます。今日は木曜日。おそらく週末はもっと賑やかになると思います。そんなことをフロントのスタッフが言っていたことを思い出しました。今日の海風は涼しい。初夏を想定してきた私にはむしろ寒いとさえ感じられるほどでした。
雲の流れが早い。しばらくすると雷雲が街を覆い、激しい雨が降ってきました。今日はどこにも出かけないで部屋でルームサービスを取ろう。おすすめを聞いてみたところ、ぜひグラスフェッドビーフバーガーを、とのことで、そのまま注文。あとはジンジャービア。アルコールを飲めない私にとってはこっちにきてから、ことあるごとに飲むことになった飲み物です(フレンチフライもことあるごとに食べることになりました)。
明日からは忙しい。今日は早めに寝ることにしよう。はじめてみるAPPELLESのアメニティ。ユーカリやサンダルウッドなどオーガニック系らしい優しい香りに包まれながらバスタイム。そして今日のさまざまな雑念を流すように(あるいは流れてくれることを願いながら)シャワーを浴びたら、あとは寝るだけです。緊張はあるけれど、あまり考えても仕方がない。
オークランドはオセアニアを代表する世界都市ですが、全体的にコンパクトな街で、中心市街地の主要な場所には歩いていけるような気さえしてくるほどです。実際に私はスタッフに見送られつつホテルを出て、あえて歩きながら仕事に向かったほどでした。
朝のヨットハーバーに吹き抜ける海の風の匂いは爽やか。ジョギングする人たちの軽やかな表情をうらやましく思いながら、停泊している船を眺めながら海沿いの道を歩いていきました。
見知らぬ街で旧知の誰かに出会うと、どうしてこうも会話が盛り上がるのでしょう。明日には大事な会議が入っているものの、5年ぶりに再開した友人は、金曜の夜だしバーに行こうと誘います。
君はビールだめだったよね?
そう言いながらいかにも古めかしいバーに私を連れていきました。確信犯、なのです。オークランド郊外の高級住宅地に生まれて、オークランド大学を出て、そのままCBDの弁護士事務所に勤めていて、そしてこの街を誰よりも愛していると自負している…ここにきたら昔からあるバーに行かないと、ね。彼はいかにもインテリ然とした表情でそのように言います。
私はビールがダメだけれど話が好きなのはよく知っている。だから我々は2軒のバーをはしごして、夜遅くまで語り合っていたのでした。私は相変わらずホテルに泊まり歩き、彼は相変わらず色々な道を走り回っている(マラソンが趣味なのです)こと、しばらくオペラを観に行っていないこと、今年食べたなかで最も美味いフムスはどこのものだったのか、あるいは「愛」をめぐる話。
まあ、色々と大変だろうけど、はじめてのオークランドなのだし、楽しんで。今度年明けにはこっちが日本に行くからね。
そんなことを言いながらスカイタワーの下で別れました。金曜日の夜はどこの店も大いに盛り上がっていて、停泊しているクルーザーからもダンスミュージックが聞こえている…そんな光景を思い出しながら夜の街をルーフトップから眺めていました。
なにかぼやけた気分で朝食を済ませました。基本的にはブッフェなのですが、メインディッシュは好きなだけ選べるのもハイアットのグローバリストの特典。前日はリコッタパンケーキ。そして今日はアボカドトーストを。落ち着かない気分を振り払うようにコーヒーを飲みます。また暗雲が…今日はタクシーで行くことにしよう。
結果的には雨にも降られず、また会議も滞りなく終えて、安堵の気持ちで歩きながらホテルに戻ってきたのでした。どこまでも広がるような真っ青な青空。なごやかな土曜日の夕方。こういうときはもちろんアイスクリームに限ります。2スクープで。甘い時間。格別です。
隣のテーブルでは若いカップルがお茶を飲みながら港を眺めていました。私も徐々にスタッフとも顔見知りになってきました。この外の席をすすめてくれたスタッフは、ニュージーランドで生まれて、日本で育ち、またこちらに戻ってきたらしく、本人いわく少しだけ、でも実際には綺麗な日本語を話します。メニューにはないのですが、アイスクリームは食べたいものですよね…私も大好きなのです。と注文を受けてくれた中年のマネージャーと思しきスタッフ。いま、色々な顔を思い出します。今朝まではなんだか気持ちに余裕がなかったものの、このときようやくホテルを十分に堪能できている気がしたのです。
なぜ私が考古学者であることをやめて、都市計画家になったのか…どこの社会にも自分の人生を語り始めるととまらなくなる人というのはいるものです。あるいは自分もそうかもしれません。期せずして昨日話題に出たフムスを出す店で今夜はディナーということになりました。いつも以上の社交性を発揮しながら色々な人と話してみました。タスマニアの水道を充実させるために私になにができるのか、ということについて真剣に考えている人もいれば、横に座っている男性にアピールするやや目がとろんとした若い女性もいました。言語や場所が違っても人がいるところに社会があって、そこにはいくつもの共通点があって、でもどこか違いもあって…
ホテルに戻ってくるとそんな食事のときのことを思い出します。ときに自分の話したことについて少し気恥ずかしい感覚を覚えたりもしながら…スカイタワーは今日も明るく夜空に光を投げかけ、ルーフトップのテラスには週末の夜の賑わいがあちらこちらから聞こえていました。
翌日のヴァイアダクトハーバーは銀色の空でした。
所用を済ませてからホテルに戻ると少し肌寒さを感じます。なぜかブルース・スプリングスティーンの歌が聴きたくなりました。そういえば北欧のトロムソで雨に打たれていたときも、同じ旋律が流れていたような気がします。あれから随分と時間が経ちました。ひどく惨めな失恋。いまはあのときのような悲壮な気分ではありません。
雨の寒さで少し冷えた体をあたためようとジャクジーに入ることにしました。キャンベラから旅をしてきた老夫婦と世間話をして、それから個別に用意されたシャワールームに入ると、パークハイアットではおなじみのAesopが置いてありました。ふと、西新宿の空を思い出しました。最近泊まっていなかったけれど、また近いうちに泊まりにいこう…と密かに思いました。そのときにはClub on the Parkでここオークランドのことを思い出すのでしょうか。
早朝に目が覚めました。東の空の向こうに太陽が昇り始めていました。いよいよオークランドを離れるとき。週末の夜の賑わいとは打って変わって静かな朝でした。インルームにアレンジしてもらった朝食を取ってから空港へと向かう車に乗り込みます。随分とのんびりとした雰囲気の大都市でした。東京に戻ってからもなんだかんだで気忙しい毎日を送っていますが、ふとあのリズム感が恋しく思い出されることがあります。この地球の裏側に反対の季節の下で生きている人たちがいる。そしてそこに好きなホテルがある。そのことは少なからず私に開放的な気持ちをもたらしてくれている気がするのです。
飛行機は次の目的地であるシドニーに向けて徐々に高度を上げていきます。旅のはじまりにみたあの緑の草原と水辺に反射する太陽が、小窓の外に少し見えて、それから白い雲へと消えました。
〜後記〜
ここのところ私生活が以前よりも多忙になり、何度か宿泊記を書くのをやめようかと思ったこともありました。そもそも私が当初このブログを書こうと思ったきっかけの大きな部分には、自らのホテルで体験した記憶を残すことにあったのですが、それはそんな記憶の手触りが匂いといったものがありありと思い起こせるときにこそするべきだという自分の中でのこだわりがあったのです。しかし夏以降に忙しさにかまけて宿泊記を書かずにいたことで、そうした実感をともなった記憶の温度が冷めていく一方で、真空パックのようにその瞬間瞬間を記録している写真が蓄積していったのです。しかし私にはそんな真空パックをひとつひとつ整理して、取り出して、並べ、ひとつの皿に盛り付けるような、つまりそれらすべての記憶を再現すべく筆をとる気力が起きずにいました。
勝手気ままな個人のブログなので、あえてルールを設ける必要もないし、好きなときに好きなように書けば良い。自分で自分に言い聞かせてみるのですが、そうは言いつつ、やはり数年にわたってこうしてホテルのことを書いていると、やはり自分なりのこだわりが生まれてきて、そのせめぎ合いをうまく解消することができなくなってきます。そしてああでもないこうでもないと悩んでいるうちに、時間がどんどん経ってしまう。そういう(悪?)循環がありました。
ああ、もう、そういう面倒な思考法をやめよう。夏とか秋の記憶はどこかに括って、目を瞑り、シンプルに自分の記憶の手触りのあるところから書けば、それでいい。
そんな想いでひとまず先月の南半球の旅を振り返ってみました。また次の記事はいつ書けるのか…あまり身構えずに気楽にいけたらと思います。最後に付記したいのは、こうしたまた宿泊記を書こうと思えたのはTwitterなどを通じて交流を持てた方から、私の宿泊記を読んでくださっているという嬉しい言葉を頂けたことによるものです。いつもありがとうございます。