高級ホテルはいつも華やかさを漂わせているものだけれど、クリスマスはやはり格別だ。競ってフェスティブシーズンのイベントを開催し、華やかな装飾にロビーやレストランが彩られ、そして夜になれば特別な料理を組み合わせたガラ・ディナーが振舞われる。そしてどこでもカップルがシャンパンを酌み交わし、ピンクペッパーコーンとローズマリーでシンプルに味付けされたローストチキンなど堪能している。
考えてみれば、このような習慣はどこからやってきたのだろう。そしていつからキリスト教の大切な祭事の日は(しばしば若い)恋人たちが愛を確かめあう祭典へと変わってきたのだろう。
今年は平成最後のクリスマス。少し時計の針を逆さに進めて、日本のクリスマスの過ごし方と高級ホテルの関係を少し紐解いてみよう…
戦前のクリスマスと帝国ホテル
少なくとも日本の歴史を紐解く限り、最初にクリスマスパーティが開かれた場所は現在の山口市(当時は周防国・山口)らしい。1552年(天文21年)のこと、ローマカトリック・イエズス会の修道士が日本のキリスト教の信者を集めて降誕祭を行なった。しかしその後江戸幕府が禁教令を発し、オランダ商館のあった長崎の出島を除いては、クリスマスは以降、明治時代まで日本の人々の生活にはほとんど関係のないものであった。
ペリー来航にともなう外圧によって日本は世界に開かれた。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする。西洋文化が流入し、それを熟知するものはハイカラともてはやされる時代になった。
いつの時代も目新しいものには付加価値が生まれ、それは大きな商機につながってゆく。文明人の証であった西洋の生活習慣は、しだいに商品化されるようになる。明治時代も中頃の1900年(明治33年)、銀座に明治屋が開業する。「牛鍋食わねば開けぬやつ」と謳われた当時、珈琲や蜂蜜などを世界から輸入販売することでこうした世相を後押ししていたこの会社は、クリスマス商戦をしかけるようになる。このときに日本初のクリスマスイルミネーションも行われたらしい。
他方で西洋に追いつこうとする国策を受けて設立された帝国ホテルもまた、こうした流れに竿を差す。諸説はあるものの1910年代には帝国ホテルではクリスマスパーティが開かれていたようだ。すでにベルボーイやサンタクロースの格好をしたり、宴会場にクリスマスツリーが飾られていたという。しかしそのかたわらで義太夫節が演じられるなどしていて、不思議な和洋折衷の様相を呈していたとも伝えられている。
(現在の帝国ホテル本館)
ちなみに帝国ホテルは1919年(大正8年)にネオバロック様式の本館が全焼している。そして1923年に竣工したのが、かの有名なフランク・ロイド・ライトの建築した本館である。関東大震災も東京大空襲も生き延びたこの建築は高度経済成長期の1967年に残念ながら一部を移築する形で取り壊されている、マリリン・モンローの「シャネルのNo5」発言やシャリアピンステーキやバイキング料理など数々のストーリーを残しながら。
閑話休題。
1931年(昭和6年)の満州事変をきっかけに日本は戦争の時代へと突入する、とは教科書にもある。しかし庶民の生活レベルにはまださほど戦争の足音は強く響いてはいなかったようである。実際にこうした世相にあっても東京中の「カフェー」やホテルでクリスマスパーティは開かれていた。
ただし当時は現在の恋人たちのロマンティックな夜という雰囲気とは少し異なっていたようである。簡単に行ってしまえば、それは「ジャズに踊ってリキュールで耽けて」(東京行進曲)のようなお祭り騒ぎをする日という位置づけだったようだ。銀座や新宿を闊歩するモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)たちがホールに集まってリキュールを飲みながら踊り狂う。そんな時代もあったのだ。
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