私の最初のホテルステイがどこだったのかを明確に思い返すことはできませんが、はじめて世界レベルのラグジュアリーホテルを体験した日のことは、もちろん覚えています。それはフォーシーズンズホテル・シンガポール。
もともとホテル好きではあったけれど、さほど海外の動向には詳しくなかった祖父母がシンガポールに滞在するときに、当時東京に出来て間もなかった「フォーシーズンズ椿山荘」と同じ系列ということならば安心だということで予約したのでした。それは旅行と海外赴任をしていた親戚の訪問を兼ねての滞在でしたが、私と私の妹もこの旅についていくことになりました。物心ついてからはじめての海外旅行。チャンギ空港に降り立ってみる異国の風景。なにもかもが新鮮な中でたどり着いたホテルは、ひときわ印象に残るものでした。
空港からの車を降りると、むっとする南洋のあつい風と甘い匂い。ホテルに足を踏み入れると、キリッと冷えたエアコンに、上品でぴりっとした香りのするアロマ。エキゾティックな間接照明に照らされるロビーは広すぎず狭すぎず、大胆に花が飾られていて、スタッフはいつもきびきびと動きながらも笑顔を絶やさない…まだまだ幼かった私にも、これまで国内で滞在してきたホテルとは一線を画すものを感じさせるには十分でした。そして客室に入ると、大理石のバスルームや、こだわりを感じさせられる家具や照明、ふかふかのベッドの横にはテディベアが置かれていました。卓上のフルーツは頻繁に取り替えられ、部屋に戻るたびに綺麗に清掃が終えられている。こうしてラグジュアリーホテルの魅力にすっかり圧倒されてしまったのでした。それからというもの、フォーシーズンズホテルというのは、私のなかでは、いわば、ラグジュアリーホテルのお手本のような位置を占めてきたように思います。
2020年9月、皇居からも程近いビジネス街についに開業したフォーシーズンズホテル東京大手町。開業当日には足を運べませんでしたが、1週間ほど経った平日に時間を見つけ、この新しいホテルに滞在する機会を得ました。それはフォーシーズンズホテルに対する過去の記憶と今の心模様が交錯する、まさに記憶に残るものだったと言えます。今回はそのときの様子について綴ってまいりたいと思います。
午前中に仕事を終えた私は、簡単に食事を済ませてから、パートナーを車で迎えに行きました。そしてそのままホテルへ。新しいビルが続々と建って、ここ大手町の様相もすっかり変わりました。
フォーシーズンズホテル東京大手町が入居しているのは、真新しいOtemachi Oneという高層ビルの中。その1階のやや狭いエントランスは、オレンジの配色に木材を合わせた温かみが際立ちます。車を横付けすると、スタッフがすかさず寄ってきて、バレーパーキングにして預かってくれます。最近の常で入館の前に手を消毒するときに、さりげなく荷物を持っていてくれたり、フレンドリーに会話をするなど、積極的にゲストに働きかけようとする姿勢がとても心地よく感じました。
エレベーターで上層階へ。扉が開くと、広く大きな窓から都心を一望できるラウンジに辿り着き、その奥の方にカーテンで仕切られた落ち着いた雰囲気のフロントがあります。このホテルには初めての来訪。しかしなぜか懐かしさを覚えたのは、シンガポールに滞在したときと同じような感動が心に打ち寄せていたからでしょうか。
中央のフラワーアレンジメントに大胆なデザインの天井。彼女はソファー席に座って、私がチェックインを済ませるのを待っている。部屋に案内される前の高揚感は、はじめてフォーシーズンズに足を踏み入れたときの、あの感覚に重なっていました。
スタッフにエスコートされて客室へ。ところどころにブルーが使われた寒色系の色合いが印象的な部屋なのですが、どういうわけか、とても暖かな雰囲気が漂っています。柔らかな枕がたくさん並べられた心地よい硬さのベッドに、ベージュのデイベッドや大きめのテーブルが置かれた南向きの大きな窓から差し込む日差し。
洗練されながらも落ち着く。やはりフォーシーズンズはラグジュアリーホテルのお手本だと思いました。
和紙とガラスの使われていて和の雰囲気を醸し出すウェットエリアは、楕円形のバスタブが置かれていて、独立式のシャワーとトイレ、そしてダブルシンクで実に使いやすい構成です。大理石を大胆に使ったバスルームのように豪奢ではないけれど、むしろ現代のラグジュアリーホテルはこれくらい抑制的なほうが格好良い。それは、ある種の熱気を帯びた涼やかさというこの東京の街の気性にも合っているように思います。
バスアメニティはフレデリック・マル。使用感にも優れますが、なによりもマグノリアの優美な香りが心地よい。この美しい客室に上品な香り…それだけでも十分にラグジュアリーホテルステイの魅力を雄弁に語ってくれるような気がしたほどです。
ウェルカムフルーツにシャインマスカット。そして大辛の草加煎餅。パートナーが鉄器でほうじ茶を淹れると、部屋の中にはまた新しい香りが広がります。夕暮れの東京の街並みは、やはり賑やかで楽しく、美しいですね…我々はなぜかいつも互いに敬語で話します。お互いに距離があるというわけではなく、少なくとも、いまはこの方が自然な気がするのです。
イタリア料理の夕食の前に、簡単にカクテルタイムを楽しもうとこのホテルのバー「ヴェルテュ(Virtu)」に。フランス料理の「エスト(EST)」と同じ入り口から入りますが、ここは不思議の国に迷い込んだかのような素晴らしいアプローチ。いつかエストにも行ってみたいね。いつもなにかに感動するとお互いに自然と出てくる砕けた言葉。この賑やかで美しいエントランスには、感性を刺激する力がありました。
エントランスの雰囲気に連なる煌びやかなインテリア。まだこのバーが開いたばかりの時間だったためか、客は少なく、我々は幸運にも窓側の席を確保することができました。しかし、いま、幸運にも、と表現しましたが、おそらく窓側ではないソファ席でも同じ言葉を使ったかもしれません。このバーはどこの席に座ってもきっと感動する何かがあるように思います。
7つの美徳をコンセプトにしたカクテル。刺激的で楽しい味わい。
もうこの世から去ってしまった祖父のことを思い描きました。彼とは一緒に色々なホテルのバーを訪ねたものでした。
もし祖父がここに来て、我々と一緒に好きだったビールやカクテルを楽しんだとしたら、どう過ごしただろう。お酒の味わいの好きな私のパートナーと、お酒の味わいに最近目覚めた私と共に一体どのような話をしたのだろう。いつものようにふざけて、我々のことをからかったのだろうか…当然のことながら、私にはその光景を想像してみることしかできません。しかしそうした連続性の上に、いま、パートナーと語り合いながらお酒を酌み交わしていることの喜びを、私は何度も反芻していたのでした。
ディナーはこのホテルのイタリア料理のレストラン「ピニェート」にて。特にコースを頼むことはなく、いくつかの料理をふたりでシェアして頂くことにしました。ビールとキノットで乾杯。焼き立てのパンは実に麦の香り豊かで柔らかく、甘い風味が後まで長く続く深みのあるものでした。
ふたつのサラダをシェアしていただきます。
手前の一皿は、ルッコラをたくさん散りばめた上にぴりっとした香りと塩気のパルミジャーノ、そこにポーチドエッグのまろやかさが加わり、全体を引き立てるのはレモンとトリュフのドレッシング。奥の一皿は、香ばしく炙られたマグロにオレンジとレモンの爽やかさが加わり、和風にしょうゆで整えられています。どちらのサラダも爽やかさが基調にありながらも、驚くほどに、野菜の主張が強く、見た目にも、また口の中に広がる感覚にも、色鮮やかな印象が残ります。
冷製にして出されることの多いカッペリーニですが、ここでは温製で出してくれます。赤色、黄色、緑色の3色のプチトマトの食感と酸味に加えて、ローズマリーが食欲をそそりますが、ロブスターにクリーミーなソースが絡み合い、繊細ながらも実感のあるもっちりとした食感の麺との相性は抜群です。甘さと酸味とほろ苦さのあるキノットを合わせても美味しい。
ちなみにピニェートには数多くの魅力的なパスタが揃っていて、これは全種類を試してみたいと思えるものでした。
スズキの包み焼きをメインディッシュに頂いたあとで、かなり美味しいイタリア料理を食べた実感もあり、我々はいよいよドルチェへの期待を高めていました。今日は食べたいものを食べたいだけ食べよう。パートナーはジャンドゥーヤを、私はババをそれぞれ頼み、それぞれを分かち合うことに決めました。
チェコレートクリームとジャンドゥーヤクリームにヘーゼルナッツ。蜂蜜の香るミルクジェラートと一緒に頂きます。ときどきパッションフルーツをつけながら、一口目に広がる軽やかな甘さ、そして僅かなほろ苦さに続いて、しっとりとしたチョコレートの香りが突き抜けてきます。どうしてここまで甘さと苦さと香りの均整が取れるのでしょう。
ババ自体は極めて素朴なお菓子だと思うのです。しかしラムにしっかり浸されて、甘みのなかに、エキゾティックな香り。パイナップルやチョコレートガナッシュによって、酸味や甘みへと味わいは広がっていきます。そしてとろりとしたクリームとその中に含まれるモヒートソルベ。ミントとクリームの組み合わせによって、あくまでも爽快感のある余韻。
最初から最後まで実においしいディナーでした。おいしい料理を前にすると、人は雄弁になるものでしょうか。我々もいつになく饒舌にお互いのことを話していたような気がしました。
ディナーを終えてラウンジに出ると、夕食前までたくさんの人で賑わっていたのが嘘のように静かになっていました。
思うがままに語り合う年配の女性グループもいないし、仕事終わりに新しいホテルの見物をかねて訪れたと思しき人たちもすっかりいない。我々ふたりだけで、静かに水を湛えた床面と、その向こう側にみえる都心の夜景を眺めました。
部屋に戻って、お風呂に入り、今宵も同じ闇を見つめながら寝ることにしましょう。カーテンを開いて外をみると、日比谷や虎ノ門や港区の方面の夜景。同じ東京に住みながら、こうも違う世界のように見えるものでしょうか。高層階にあるラグジュアリーホテルに滞在するといつも感じることですが、今夜は特にそのような気持ちを強くしました。
はじめてのラグジュアリーホテルに泊まったときの気持ち。たぶん、あのときに憧れて、ずっと忘れていたのだけれど、家族ではない誰かと、いつの日か…そんなことを考えながら、うつろな気分のままで眠りにつきました。
夜遅くに雨が降っていたのでしょう、空に浮かぶ雲が近く見える朝を迎えました。朝食も昨日と同じピニェートで頂きます。夜の雰囲気とはまた違い、メタリックな雰囲気と自然素材のぬくもりがあたたかい空間です。
最初に目覚めるようなフレッシュジュース。いつもならばオレンジジュースを頂くところですが、スタッフが林檎とクランベリーのミックスジュースもあるということでそちらを選びました。朝食に美味しいパンが食べられるかどうかということは、きわめて重要ですが、クロワッサンもシャインマスカットのデニッシュもココナッツのマフィンも、求める水準を超えるものであったことはここで強調しておきたいところです。
このイタリア料理のレストランにはルーフトップ席が設けられているのも特徴のひとつです。9月になってすっかり涼しくなりました。今日はまして雨後のしっとりした東京の空。これからの季節はきっとこのルーフトップ席がとても心地よくなることでしょう。
部屋に戻って、読書でもしながら、ゆったりとした時間を過ごすことにしました。そしてしばらくしてからプールに。客室からスパに直接アクセスできるエレベーターもあり、バスローブなどのリラックスした格好で向かうことができます。このあたりの導線のうまさもこのホテルの魅力のひとつかもしれません。そしてスタッフの親切な対応やスパ施設の充実度(このスパの温浴施設からは都心の景色を一望できるようになっている)を考えてみても、やはり東京でもトップレベルのホテルと言ってまったく差し支えないと思わされました。
メタリックな床板がとても艶やかな美しいプール。少し泳いでみたり、優雅なデイベッドに横になったりして、のんびりとした時間を過ごしました。
ここで再びシンガポールでの滞在を思い返していました。英語がほとんどよく分からないなりにも年齢制限が設けられていて入ることができないことはわかった、それは大人用のプールでした。ガラス扉の向こうに緑に囲まれたベッドが並んだ優雅な空間が見えたことを思い出します。時間も空間も異なりますが、同じフォーシーズンズのプールに、大人になって来てみた。あのときどんな寝心地だったのか興味津々であったデイベッドを使ってみた。かたわらには私のパートナー。それは過去に置いてきた憧れを取り上げて、ひとつひとつを見つめるような気持ちでした。
こうしてまたひとつの憧れを、現実のものにした。
それは喜ばしいことであると共に、新鮮さを失ってしまうのではないかという不安を催させるものでもあります。これは愛情にも言えます。過ぎ去っていく時間のなかで、ひとつひとつの気持ちや記憶が薄れてしまうことへの恐怖。逆に考えれば、そうしたことは、いまのこの瞬間の喜びや新鮮な驚きをかけがえのないものと考えているからこそ沸き起こってくる情感なのかもしれません。そしてそうであるならば、いま生きていることを、強く胸に刻みつけたいものです。
私の最初のラグジュアリーホテル体験はフォーシーズンズ・シンガポールで始まりました。奇しくもその祖父も伴う最後の海外旅行は家族で滞在したバリ島のフォーシーズンズリゾート・バリ・アット・ジンバランベイでした。それはもう戻ってこない時間ですが、本当に素晴らしいホテルステイというのは、いつまでも心に反復されていきます。
ホテルを単なる寝るための場所と捉える方もいるでしょうし、それはそれで一理あるとも思うのですが、私にとっては、やはり特別な記憶を紡ぐ場所であるのです。今回の滞在がそうだったように、特別なステイ体験に出会えたときの喜びはいつだって新鮮で強く心に訴えるものです。この価値観を共有できて、新鮮な驚きを見つけ出していける人ならば、汲めど尽きない感動を一緒に積み重ねていけるのではないかと思います。
こうしてブログを続けているのも、そうした価値観を共有する人たちに出逢えることの喜びに下支えされています。改めて皆さんに感謝いたします。また過去・現在・未来のホテルに関する私の話をいつもにこにこしながら聞いてくれる私のパートナーにもここで密かに感謝を伝えたいと思います。
色々と長くなってしまいました。
それはそれほどまでにこのホテルが感性を刺激するラグジュアリーホテルだからに違いありません。そんな素敵なホテルがまたひとつ東京にできたことに惜しみない拍手を送りたいと思います。
また近いうちに訪れたいものです。