しばらく諸々うまくいかなくて、気持ちばかりが焦って、ついに心が安定しない日が続く。毎年の秋はやはり私にとって「愁い」の季節なんだなと思いながら過ごしていました。その「愁い」の季節のちょうど中間点くらいに私の誕生日があります。パートナーとはここのところ小さなすれ違いが多くなってしまっていたのですが、誕生日は一緒に過ごすことを決めていました。そして前々からずっと一緒に行きたいと話していたアマン東京を予約していたのでした。
アマン東京…まさか東京にアマンが出来るだなんて。そういう驚きと共に2015年の春に足を運んだ記憶があります。当時は滞在したわけではなく、ただ様子を見ただけでしたが、真っ白でとても高い天井と黒い石造りのコントラストに圧倒されたことを覚えています。それ以前は東南アジアのラグジュアリーリゾートというイメージが強かったのですが、日本の、それも東京にどのような世界を描くのかをとても興味深く(楽しみというのとはやや違う感情で)思っていたのです。
思い返してみれば、このホテルをこのタイミングでの滞在先に選んだのは必然だったのかもしれません。どうしてこんなにこの空間に足を運びたいと思ったのか…それはふたりで行ったことのない魅力的なホテルに泊まって、新しい体験をしたいという深層心理か、あるいはあたたかいホスピタリティと絶対的なラグジュアリー空間に包み込まれたかったからか。理由はいくつもありますが、それを突き詰めていくと、このホテルが知らず知らずに幸福感を人の心に灯すような場所という印象に収斂していくように思うのです。それはあたかも魔力のように人を捉える魅力であり、アマンジャンキーが生まれる理由なのかもしれません。
大手町のビルの片隅に、ここにホテルありという宣伝のほとんどない通路があり、そこを車で進むと人力車が停まっています。この不思議なアプローチは他のどのホテルでも見たことがありません。しかしバレーパーキングの車を預けると、そこはアマンの世界。ダイナミックな絵画と木のあたたかみを感じるレセプションを抜けてチェックインに進みます。
エレベーターに乗った瞬間から東京を離れていく感覚になります。この感覚は素晴らしいラグジュアリーホテルに泊まるときの独特の感覚であり、そのホテルごとに湧き上がるイメージにはバリエーションがあります。例えば、コンラッド東京であれば、ぴりっと引き締まるような高揚感であったり、パークハイアットであれば異世界へのワープのような超越的な気分。そしてアマン東京はあたたかくて穏やか気持ちが高まっていくような優雅な気持ちになります。それは東南アジアのリゾートで過ごすときのゆるやかな心地に似ているような気がしましたが、それは私の先入観がそうさせるのでしょうか?
チェックインの手続きはロビーラウンジで行います。本当に久しぶりにこのロビーラウンジを訪れました。圧倒的な高さをもつ天井から溢れる白い光と、巨大な窓から降り注ぐ秋の日差し。それを受けとめるような黒い石造りの大胆なコントラスト。ここは紛れもなくラグジュアリーリゾートホテルです。
本日の部屋はデラックスパレスガーデンビュー。皇居の緑と都心の高層ビルと秋の青空が巨大な窓から見渡せます。ダイナミックな景色はもちろんですが、伝統的な日本家屋に対するインスピレーションを得たと思われる上品でシンプルな客室。一歩間違えると面白みのない単調な内装になってしまいそうなところが、高踏的とでもいいましょうか、むしろその単調さが上品さに結びついているように思えるのです。飾り立てないことによって、かえって気位の高さを感じさせられるのかもしれません。これもまたアマンらしい。
この客室のもうひとつの特徴はなんといってもこのウェットエリアでしょう。和紙の障子を開くと天井まで届く大きな窓と深い浴槽の石造のバスタブ。レインシャワーとハンドシャワー。そして木の風呂桶と椅子。ベイシンもダブルシンクで使いやすく、黒色なのにまったく威圧感のない落ち着く雰囲気なのも素晴らしいところです。石鹸は釜炊きの手作りのもので、バスアメニティもユーカリのようなすっきりとした香りのもの。全体に嫌味のないこざっぱりとした感じなのはアマン東京に貫徹されているシンプルな美学のためでしょうか。あるいは日本の伝統的なものに対するアマン流の解釈でしょうか。
それにしても本当に大きな窓です。客室には段差がついていて、少し下がったところがリビングスペース。秋の日差しは冷たく感じることもありますが、この部屋にいるかぎりそれはあたたかいものに思えたのでした。この居心地の良さ。それは他のどのホテルに対しても思うことのない快適さです。
都市とアマン。その組み合わせが生み出す魅力というものに対して懐疑的だった自分がいました。それは元祖のアマンプリであるとか、あるいは以前訪ねたバリ島のアマンダリやアマンキラといった珠玉のホテルのイメージが強すぎたせいなのかもしれません。アマンは行きにくい場所にあるホテルファンの聖地だ。その不文律を破ったような都市型のアマン。実際にはアマン・ニューデリーが先行していたわけですが、いずれにしても、なんとなく、東京という街の文脈に合わないような気がしていたのです。日本でも、まだ訪れたことのないアマネムやアマン京都は文脈に合いそうな気がするのですが、東京はあまりにも人間の生活に近すぎるような気がしました。
しかしこうして空とビルを部屋から眺めていると、これはひとつのラグジュアリーリゾートなんだ。東京にあって東京を遠く離れられるような「行きにくい」場所なんだ…と妙に納得させられてしまいます。
夕食までは時間がある。今日は私の誕生日なのでふたりが好きな銀座のとあるフランス料理店を予約していたのですが、空白の時間を埋めるようにホテルで過ごすことにしました。そういうときに都合が良いのがバー。広いロビーラウンジの奥の方にスクエア型のランプが特徴的なバーカウンターがあります。
ミクソロジストの方にお願いして、おすすめのカクテル(私はモクテル)を作ってもらうことにしました。なにを飲んでもいい気分のときに私はよくこういう頼み方をします。季節の果物を使ったものを勧められたので、2種類の和梨をすりおろした実にすっきりとしたモクテルを作ってもらいました。
小さなすれ違いが重なっていた彼女とぴりぴりした時間が流れたときもありましたが、この空間で本当に久々にふたりでゆっくり話をしているうちに、段々とそのわだかまりも解けていったような気がします。
日没はもうすぐそこまで来ていました。この風格ある美しいラウンジの景色も佳境を迎えるころ、我々は席を立って夕食に向かうために一度部屋に戻ることにしました。鮮やかなグラデーションを描く東京の空は言うまでもなくドラマティック。おそらくこの景色を眺めるためだけでもここを訪れる理由になるでしょう。そしてもしこの景色を見たならば、このホテルにそのまま泊まりたくなってしまうことは疑いありません。
彼女がドレスアップするときを待ちながら、私は窓から太陽が描く空模様が徐々に群青色に変化するさまを眺めていました。本当にいま起こっていることは現実なのだろうか。夢の中にいるような気持ちになりました。ホテルに魅せられたせいなのか、あるいは…そうこうしているうちに、シックな黒いドレスに着替えた彼女が出てきました。
なんだか久しぶりだね…そう言ったか言わなかったか記憶が定かではありませんが、随分と会っていなかったような人に会ったような感情を覚えました。そういえばちゃんとしたフランス料理を食べにいったのはもう2ヶ月以上も前のことです。ゆっくりと会話を楽しみながら、美味しいものをふたりで食べて、素敵なホテルに泊まる。最近の私が少し忘れていた生きる悦びがそこにありました。