これは私だけかもしれませんが、海沿いにあるリゾートホテルなどは好きなのですが、なんだか山や森の中で自然を感じるとなると、それほど気が進まないのです。もちろんその素晴らしさを頭ではわかっているのですが、なんだか内省的になりすぎてしまうような気がして、ことに冬ともなると、その傾向はさらに高くなる気がします。スキーリゾートのように賑やかな雰囲気を感じられる場所ならばともかく、澄んだ青空の下で木々の枯れた山の景色を想像するだけでも、メランコリーな気分になるのです。
でも、いま、先日の滞在を振り返ってみて、なんだかこういうのも悪くないな、とあたたかい気持ちがこみ上げてきます。
フランス料理をはじめとした美食で知られる「ひらまつ」の箱根にあるリゾートホテル、ザ・ひらまつホテルズ&リゾーツ仙石原。数多くの美術品が飾られた空間で、美食と温泉を満喫できる静かなホテルでした。今回はこのときの滞在についてリポートしてまいりましょう。
箱根の山を登っていくと…
諸々のことで気持ちが沈むことが最近多くて、この日も、パートナーを迎えにいきながら、あれこれと最近の出来事について考えを巡らせていました。私の好きな小説のひとつ、エーリッヒ・ショイルマンの『パパラギ』に、考えることはそれ自体が重い病気なのだ、と書いてあったことをふと思い出します。そういえば、そう。頭を空っぽにすること…意外と難しいものですね。
この箴言に返す言葉を思いつかないままに、車を走らせる…そして、彼女の家の近くまで来ると、なんだかちょっとほっとします。笑顔で手を振りながらこちらに向かってくる姿をみて、私も自然と微笑みを浮かべてしまいました。
おはよう!という言葉の明るさ。
そしてさっきまでの「重い病気」は背後へと退いていくような気がしました。
大好きな人と交わす挨拶って良いですね。
考えることの行き着く先は、自分らしい自分を探していくことのように思います。でも、本当の自分なんて、どこにいるのでしょうか。大好きな人と向き合っているとき、その人のことばかり考えて、自分のことを考える余地はないように思います。ふと、前に離婚したときに、自分に向けられた「わたしという役割」への問いかけを思い出しました。自分のことを否が応でも考えなければならなくなるときに、ひとは苦しくなる。もしそれが正しいとするならば、対照的に、自分というものを忘れてしまえるような相手と一緒にいられるとき、私は「わたしという役割」から開放されることで、落ち着きと居心地の良さを感じることができる。あなたはこういう人(こうあるべき人)ということを決めつけない。それはとても大切なことのように思います。これは恋愛に限らずとも言えることかもしれません。
そんなあたたかさの発見を、うまく言葉にできないままに、東名高速を西へ進み、小田原厚木道路へと抜けます。車も人もいつもより少ない箱根湯本を過ぎて、国道1号線の曲がりくねった坂を少し寄り道しながら登っていきます。
そしてホテルに着いたのは、太陽が少し翳りはじめたくらいでした。立派な門を通って、坂道を登ると、黒い石の壁にピンクのHIRAMATSUの旗やカラフルな旗が掲げられた、美術館の外観のような建物が見えてきます。エントランスに車を寄せると、待っていたスタッフが荷物をおろして、チェックインの案内をしてくれました。じつに丁寧かつ明瞭な説明で、好ましい第一印象を持ちます。数ヶ月前に滞在した熱海のひらまつと外観の雰囲気などはまったく異なりますが、このあたりのホスピタリティの高さは、とても素晴らしいと思わされます。
あたたかみのある暖色の照明とクラシカルなシャンデリア。木目の床に敷かれているのは、全体の洗練度からすると少し意外な素朴な絨毯。そのギャップがまた愉しい空間です。ひらまつホテルズらしく、アランミリアの濃厚なフルーツジュースを飲みながらチェックインを行います。今日は我々以外にはほとんど滞在しているゲストがいないようです。
アンティーク家具やモダンアートが飾られたロビーエリア。ホテル全体のインテリアもこのような雰囲気で統一されています。パートナーは歩きながら、草間彌生の作品を見つけたり、窓の向こうの自然を眺めたりしていました。私はなんだかとても平和な光景だなという気持ちで過ごしていました。
しばらくすると、スタッフが部屋の準備ができたと鍵を持ってきてくれました。キーカードではなくて、金属製の鍵というところがこのホテルらしいところだと思います。
我々はソファに座って、少しとりとめのない話をしてから部屋に向かうことにしました。
ひらまつ仙石原の客室
ロビーラウンジを離れるときに、スタッフが我々をエレベーターまで見送ってから朗らかにこう言うのです。
「ボタンを押してください、上でお待ちしております!」
熱海でも同じ経験をしている我々は、お互いに顔を見合わせて、これは…!という表情。
そして実際にエレベーターが動き出して、ものの数秒で、3階に到着。そして扉が開くと、先ほど下で見送ったスタッフが涼しい顔で、お待ちしておりました!
息も上がっていないし、一体どうやってこの短時間に移動したのでしょう。謎は謎のままにしておきましょう。
ひらまつ仙石原の宿泊棟は、レジデンスと本館があり、今回はひらまつのリゾートらしい半露天の温泉がついている本館の部屋を予約しておきました。インテリアコードはロビーラウンジと同じで全体に明るく、細長い客室にはアートやアンティーク家具が飾られています。奥には展望露天風呂が見えていて、さらに遠くに箱根の山の緑が広がっています。
特徴的な円形の「女優ミラー」が並んだ、ダブルシンクのウェットエリア。そして温泉がとどまることなく流れ続けている石造りの浴槽。テラスに至る窓を開くと箱根の山に吹く乾いた冬の風が吹き込んできて、温泉から立ち登る湯気を空中に攪拌する様を見て取れました。バスアメニティはブルガリのオ・パフメ。嫌味にならないぎりぎりの豪華さとでもいうべき絢爛さのバランスが、ひらまつのラグジュアリーな空間の特徴と個人的には思います。
美術館のようなホテルで冬の箱根を過ごす
翳っていく日差しがなんだか惜しくて、フルハイトウインドウを開いて、外のテラスに出てみることにします。
枯れた山の景色。それは茶色のみならず、じつは、淡い緑色や秋の名残の赤色や黄色に彩られていることを改めて見つけました。山の稜線の向こう側を眺めると富士山。今年は雪があまり積もらないようで、一段と山肌が、粗く、青く、荒々しく見えました。綺麗な景色は人の心をなんだか青くさせる気がするのです。冷たいというよりは青い。寒色を冷たく寂しいとみるか、それとも涼しく爽やかとみるかはそのときの心模様に依るように思うのですが、今日の私は後者でした。
この冬の山の景色に爽やかさを見るような気がしていました。
付き合ったばかりのころには、自分というものの何をパートナーに見せるべきなのか、そして自分をどこまでさらけ出すべきなのか、いっけん、彼女のことを見ているようでいながら、じつは自分に目が向くことがよくあったように思うのです。もちろん今だってそういうことが皆無というわけではないのですが、だいぶ、そういう意識が薄れてきたように思います。
自分を殊更に見せる必要がなくなったこと。それはまたパートナーが、意識的にしろ無意識にしろ、私に「こういう人であってほしい」という要求をしないこととも関係していると思います。人はそうそう変われない。そうであるならば、近しい人であればあるほど、変われないその人をそのままに認めて受け入れたい。私はそう思っていますし、パートナーもそのように行動してくれる。そこから来る安心感を最近よく感じています。だからこそ、私はあえて「本当の自分はこうだ」と主張してみたり、「自分のこういうところをみてほしい」と要求したりする必要がなく、内省的になりすぎることから開放されていたのかもしれません。
冬の箱根の美しい景色をそのままに受け入れて、眺めて、そしてそれを共有している喜びがそこにはありました。
少し体が冷えたので、部屋に戻って、温泉につかりましょう。かなり熱いので、冷ましたり、かき混ぜたりしながら、お湯を整えてつかります。窓を全開にすると、露天風呂のようになり、木々の香りを運ぶ風に火照りが心地よくさめていきます。
お風呂から上がったら、冷蔵庫に用意されているペリエですっきりと。夕食にはまだ早いので、心地よいソファでときどき夕陽が空を染めるのを眺めながら、本を読んだり雑談したりしながら、ゆったりと過ごします。旅先のこういう穏やかな時間がとても幸せに感じます。
ディナーの時間になったので階下に降りていきました。ほとんど人がいない静かな空間でいただくのは、和食のエッセンスを積極的に取り入れたイタリア料理のコース。底部を雲海に見立て、生花のように飾り立てられたアミューズブッシュは、オスミックトマトとブリードモーのクレーマクロケッタ。そして千枚漬けやほうじ茶をつかったリゾットが、箱根らしい寄木細工の盆に入れられた和食器で出されます。
味わいの豊かさはもちろんのこと、さりげなく土地のイメージを反映させたコース料理に、とても愉しい気持ちにさせられます。
日本料理とイタリア料理の良いところが組み合わされた料理の数々が続き、今日のメインディッシュは小鳩のロースト。舞茸とラグーで和えた手打ち麺と共に出されます。滋味深い美味しさの鳩肉ですが、笹身や手羽などは炭火で塩焼きにして出されます。これがとにかく香ばしく、心地よい歯応えと共に、やわらかな甘みと旨味が広がる素晴らしいアクセントになっていました。
パートナーと会話をしながら、デザートとハーブティを頂き、ふと気づいたら、あっという間に長い時間が経っていました。部屋に戻って、部屋で温泉に入ってからゆっくりすることにしましょう。
心地よい疲れを感じながら電気を消すと、真っ暗な部屋。少し遠くから聞こえてくるのは、浴槽に止まることなく注がれる温泉の水音。その音が妙に心地よく我々を眠りへと誘いました。
目が覚めると、今日も抜けるような青空。箱根で迎える朝の気持ちよさを感じずにはいられません。
朝食に向かうと、昨日座った席と同じ場所に案内されました。フレッシュオレンジジュースやコーヒーと共に、牛タンを使ったスープや温泉卵と茸のパイ。どこかあたたかみのある朝食です。分量もかなり多く、これだけでもう昼食は要らないのではないかと思ったほどでした。食後に少しだけこのレストランのテラスに出てきましたが、小さな池には薄氷ができていて、その表面を撫ぜる風がいっそうの寒さを我々に感じさせたのでした。
しかし、寒いけれど、やはり気分はどこか爽やかでした。
今日も本当に良い天気。
富士山を眺めるスカイラインをドライブしながら帰ることにしましょう。