【ホテルニューグランド宿泊記2021】歴史ある本館のスイートルーム、雨の一夜

今から遡ること100年近く前、関東地方を襲った巨大地震によって、横浜の街は壊滅的な打撃を受けて、すっかり荒廃した大地が広がっていたそうです。散乱した瓦礫の山の一部は横浜港に集められて、美しい山下公園の礎になったと伝えられていますが、そこから通りを挟んで反対側にもこの復興の象徴的なものがあります。それこそがホテルニューグランド。このホテルがなぜ「ニュー」グランドなのかといえば、もともとここ横浜には外国人向けの「グランドホテル」というホテルがあったものの、関東大震災によって廃業となり、そこに新しく生まれ変わる横浜を代表するホテルとなるよう願いが込められたと(諸説あり)いいます。昭和2年(1927年)の開業からこのホテルは数々の歴史的な出来事に立ち会いながら、今に至るまで、横浜を代表するクラシックホテルとして君臨してきました。

ホテルニューグランドには1991年に18階建ての新館が開業しましたが、歴史ある本館はそのまま残されました。この本館には錚々たる著名人が訪れたといいます。皇室や王族などの賓客などもそうですが、終戦直後の1945年、連合軍のダグラス・マッカーサーは、あえてこのホテルのスイートルームに宿泊しており、彼の名を冠した客室はいまもそのままに残っています。

ここのところクラシックホテルに魅せられている我々は、この歴史あるホテルに泊まろうと計画を立てました。眺望に優れる新館も悪くないけれど、やはり本館に泊まりたい。現代の感覚からすると、やや設備に劣るところがないわけではないけれど、それでも時を重ねた風格に触れ、魅力的なホスピタリティに彩られた滞在となりました。今回はそのときの様子についてリポートしてまいりましょう。

雨上がりのチェックイン

観測史上最も早い梅雨入りが近畿地方や四国地方に出された今年の5月中旬。関東地方もなんだかはっきりとしない天気に見舞われており、朝から雨が降ったり止んだりを繰り返していました。気持ちもなんだかぼんやりとしていて定まらないなかで、パートナーを迎えに、いつもの道を。彼女の家から横浜の街までは渋滞もなく、すんなり着いてしまいました。

このホテルにはバレーパーキングサービスはなく、自走する機械式の駐車場があります。車ごとエレベーターに乗って、地下に駐車。チェックインまではまだしばらく時間があるので荷物だけを置いて、中華街まで昼食を取りにいきました。

馴染みの店ではなくて、また別の老舗の店内は比較的空いていました。ほどよく満腹となり、そのまま少し公園でも歩こうということになり、ホテルの前にある山下公園へ。震災復興の一環として作られた港に面した公園。花の咲き乱れるロータリーの向こうには、日本では唯一の戦前から現存する貨客船、氷川丸が係留されています。雨は上がって、海からか空からか、湿気を含んだ空気があたりを吹き抜けるなか、公園はジョギングする人や散歩する人で、賑わっていました。

少し風が強くて、雲がどんどん動いていく中で、我々の目線は上ではなく、前にある薔薇に向けられていました。横浜にはバラ園がいくつかありますが、周辺の雰囲気と合わせても山下公園のものは個人的に格別の感があります。無料で開放されており、楽しそうに眺める人たちのあたたかい雰囲気がそこにはありました。横浜港側から見渡すと、薔薇と新緑の銀杏の木の向こう側に本日滞在する「HOTEL NEW GRAND」が見えました。

そろそろチェックインにしましょう。車寄せなどがあり、チェックインの手続きなどを行うのも新館の方なのですが、あえて昔ながらの本館の玄関から入ることにします。ホテルの正面付近まで来ると、風に煽られた雲の隙間に一瞬だけ青空が見えました。

玄関を入ると、真正面に見える青い絨毯が敷かれた大階段。見上げるとオリエンタルな照明と壁画が印象的なエレベーターホール。時計を取り囲む複雑な文様や3枚扉のオーチスエレベーター。大正時代から昭和戦前期にかけての装飾性の強い高級感。どこか古めかしくて、どこかモダンなその空間は、いつ訪れても圧倒されるものです。

チェックインを終えてから、あとでこの階段の上にも行くことにしよう。そのようにパートナーと話しながらチェックインに向かいます。

いかにも当時のままと思わされる低い通路。いまは一時的に閉鎖しているバー・シーガーディアンの横を通って、高い天井の新館へ。大理石と蝋燭調のシャンデリア、そして中央に置かれた装花の華やかなロビーは、本館とは異なるものの、通底するクラシカルな雰囲気があります。昭和の初期に完成した本館と、平成の初期に完成した新館。そこに令和の初期に足を踏み入れた我々は、丁寧にお辞儀をして挨拶をするスタッフに案内されながら、チェックインの手続きに進みます。慇懃な中年のスタッフと、極めて真面目そうな若手のスタッフがにこやかに応接する様子は、いかにもクラシックホテルらしくて、とても微笑ましく思えました。

さて、今日の部屋は、角部屋に当たる本館のスイートルーム。眺望に優れて広い新館の部屋も提案されましたが、やはり本館にこだわりたいものです。カードキーではなく古めかしい鍵を渡されて、ぱりっとした男性スタッフのエスコートで部屋まで向かいます。なんだか堅苦しい雰囲気があるように思われるかもしれませんが、横浜という土地柄か、どこかスタッフ全体にも良い意味での砕けた安心感があります。

グランドスイートルーム

先ほどの通路を通って、1階からこれも古めかしいインテリアのエレベーターで階上に。壁紙などこそ新しいものの、建設当時の面影をそこかしこに感じる廊下を抜けて建物の角部屋へ。鍵を入れて、回して、という動作をホテルでするのも久々のような気がします。

扉を開くと、淡い緑青色の壁紙にマホガニー調の家具が重厚感を演出するリビングルーム。毛足の長い絨毯や沈み込むソファーなどひとつひとつの調度品が雰囲気を壊さないように置かれています。建物の角に当たる窓のところは湾曲していて、どの窓も全開にすることができるようになっていました。八角形の鏡やひとつひとつ手で点灯させるランプなどもこの部屋らしくていいものです。

さらに奥に進んで、白い扉を開くとベッドルーム。全体にベージュの上品な色使いは、万人受けの冒険しない印象を与えますが、むしろこの歴史あるホテルにあっては、このような飽きのこないデザインがふさわしいのかもしれません。奥には金属製の重そうな鏡付きのドレッサー。キングサイズベッドは程よい硬さで寝心地は悪くありません。真っ白なベッドに濃青色のクッションが横浜のホテルらしい色使いのアクセントになっていると思います。

ベッドルームの奥にウェットエリアがあります。大理石調で重厚感があり、独立式のシャワーブースも設けられているほか、ベイシンはダブルシンクとなっているので、現代の基準から考えても使い勝手は決して悪くありません。天井が低いのはこのホテルらしい個性ですね。

バスアメニティはブルガリのオ・パフメ・オーテベール。ホテルニューグランドの通常の客室は、オリジナルのバスアメニティを用意してあるようですが、スイートルームはBVLGARIのようです。香調は馴染み深い緑茶の爽やかさを基本にしながら、どこか古典的な香水のエッセンスを感じます。それは東洋的なものと西洋的なものがうまく交錯するような感じがして、このホテルらしい香りだと思いました。

ザ・ロビーとフェニックスルーム

しばらく部屋でゆっくりしたら、先ほどの大階段の上の部分、すなわち本館の2階を見に行くことにしましょう。

エレベーターを降りると、思わず溜め息が溢れます。高い天井に石造の立派な柱、そして随所に見られる東洋的な要素。そして重厚な濃青色のカーテンや群青色に唐草模様の絨毯が、港町横浜らしい、高級感がありながらどこか爽やかな雰囲気を醸し出していました。ほとんど人のいないザ・ロビーはなんだかここだけ時間が止まってしまっているかのようです。外には再び雨が振り出しそうな重たい雲。それでもここの大きな窓にはめいっぱいの光が差し込んでいました。

ふと、奥の方を見渡すと、通常は閉まっていたり、宴会などに使われているフェニックスルームの扉が開いているのが目につきました。開業当時はこのホテルのメインダイニングであった部屋ですが、いまは不定期に空いている幻のレストラン。

特にまだ食事をするつもりはなかったけれど、誘われるように我々はフェニックスルームの中に入ってしまいました。ぴしっとした格好をしたレストランのスタッフが席まで案内してくれます。メニューの内容よりもまず天井の装飾の美しさに目を奪われていました。奥の方には当時雅楽の演奏がなされていたというデッキもあります。マホガニーの壁や天井には古い寺院のような装飾があり、当時は、いや今でも、和洋折衷の絢爛さに魅せられます。置かれている椅子は正直に言えばやや小さくて座りずらいのですが、これもおそらく歴史を物語る証人なのでしょう。果たしてどれだけの人たちがここの席に座って、天井を眺めたり、食事をしたりしていたのでしょう。

大きな窓は山下公園の方に向いています。今は綺麗な新緑や薔薇が咲き誇る様子が見えます。関東大震災という未曾有の災害から、フェニックスの名の通り、不死鳥のように復活を遂げた横浜の街とその象徴たる山下公園とニューグランド。両者はなんとなく不可分の関係のように思えます。

ご注文はいかがでしょうか?その声に我に帰って、軽食の代わりにデザートを注文しました。

ホテル伝統の一品、プリン・ア・ラ・モード。何を隠そうこのホテルが発祥と言われています。終戦後、このホテルはしばらく連合軍に接収され、そこで華やかでボリュームのあるデザートをという要望があったようです。日本は食糧難の時代であったので、プリンにアイスクリーム、そしてアメリカから送られてくる缶詰の果物をふんだんに盛りつけたデザートを工夫して作ったものと伝わります。

現代からみれば、素朴なデザートに見えますが、コルドンディッシュという横長の器に盛られた甘いプリンやフルーツ。当時のパティシエの夢や工夫を今に伝える一品を、この空間で頂くのもまた感慨深いものがあります。

フェニックスルームをあとにして、パートナーとふたり、ザ・ロビーのソファに腰掛けて、外を眺めたり、昔の横浜に思いを馳せたりしていました。そのうち外には曖昧な雨が降ってきて、街路樹も歩く人たちも濡らしていきました。道ゆく車の音が少しだけ聞こえるほかに、このロビーに聞こえる音はありません。我々もなんとなく声を潜めて、このホテルに泊まる感動を語り合っていました。

私の大叔父がかつて働いていたホテルニューグランド。律儀な彼は私たちの家の誰かが誕生日となると、クラシカルなこのホテルのバタークリームのショートケーキと、同じく名物のラムボールを買ってきてくれたものでした。私の祖父とビールを飲みながらホテルの話をよく語っていました。熟年離婚して、退職後に、このホテルの1階の売店で働いていた同世代の店員と再婚。10年ちょっと前に、祖父母と私の母と中華街で食事をしたのが最後。それから横浜で暮らしているという便りがあり、引っ越しやらなにやらで最近はすっかり疎遠になってしまっているけれど、元気にしているのだろうか…?おそらくもう大叔父のことを知っているホテルのスタッフもほとんど(あるいはまったく)いないでしょう。

行き交う人は変わっても、ザ・ロビーの重厚な雰囲気は、今も昔も変わることなく、この場所に存在し続けているのだという、ちょっと不思議な気持ちを抱えながら、エレベーターに乗って部屋に戻りました。

伝統のレシピと夜のロビーと

夜はやはりこのホテルならではのものを食べよう。我々は本館1階のコーヒーハウス「ザ・カフェ」で夕食を取ることにしました。じつは事前にTwitterで交流のあるHAKOさんが召し上がっていて気になった「大人のお子様ランチ」というものが気になっており、これはこのホテルの名物をコンパクトに集めたとても魅力ある内容なのですが、19時くらいに行ったときには時短の影響ですでにオーダーストップ。そこでパートナーはスパゲティ・ナポリタンを、私はシーフードドリアを頂くことにしました。

シーフードドリアというと、西洋由来の料理かと思われるかもしれませんが、じつは発祥の地はここホテルニューグランドと言われています。

このホテルの食事を語る上で、初代料理長のサリー・ワイルの名を挙げないわけにはいきません。フランス料理のシェフであった彼は、イタリア料理やスイス料理にも造詣が深く、後の日本の西洋料理を牽引する数多くのシェフを育てたことでも知られています。とりわけ後のホテルオークラ総料理長・小野正吉は著名ですが、現在でもその薫陶を受けた人たちの系譜のレストランは数多くあります。メニュー以外のものでも要望があればなんでも応じるというサリー・ワイルは、ある日のこと、体調の優れない客のリクエストに応えて、すっきりと食べられるものを即興で作ったそう。それこそがこのシーフードドリアであり、師の弟子たちによって日本中に伝えられ、今でも人気のメニューとなっているのです。

ホテルニューグランドのシーフードドリアはシンプルそのもの。余計な食材はなく、バターライスに、海老と帆立のクリームソース。焦がす程度に振られた微量のチーズ。しかし単純であるようでいて、とても工夫された味わいは、濃厚なコクがあるのに不思議と後味は爽やか。もともと体調の優れない人のために「喉越しがよいものを」と生まれた料理の真髄は、いまも変わらずに継承されているように思います。いつここに来ても、つい注文してしまう一品。

パートナーが注文したスパゲティ・ナポリタンも、おそらくイメージされる喫茶店の味とは一線を画する上品なもので、ケチャップではなくてトマトベースの濃厚かつすっきりとした味わい。こちらもこのホテルの2代目料理長の入江茂忠氏によって考案されたものが、全国に伝わったという逸話が残されています。

シーフードドリア、スパゲティ・ナポリタン、そしてプリン・ア・ラ・モード…それらに比べると、知名度は低いのですが、私が個人的に大好きなのがこのクラシカルなチョコレートパフェです。バニラアイスとチョコレート、2種類のアイスにホイップクリームとメレンゲというとてもシンプルな内容なのですが、変奏曲みたいに、食べ進めるたびに変化を感じるひんやりと甘美な味わい。やはりこれを食べずには終われないものです。

すっかり満たされたディナーを終えて、我々はふたたび2階のザ・ロビーへ。山下公園のライトアップの華やかさとは対照的な静けさ。重々しい高級感を鴨治出すマホガニーの柱。歴史を静かに物語るかのようなクラシカルな椅子。そのどれもが風格をもってそこにはありました。夜のラウンジの静けさは一段と強く、自分たちの呼吸さえも聞こえるほどでした。歴史を重ねた空間には数多の旅人の記憶が憩うような気がして、懐かしさとも少し違うあたたかな緊張があるように思われます。過去に想いを馳せる夜のひととき。小糠雨の粒はしだいに大きくなり、しとしとと音をたて、存在感を増してきたようでした。水飛沫を立てるタクシーの光が時折窓に反射していました。

雨の港の夜明け

部屋の窓を開くと、雨に混じって夜の海の風の匂いがしたような気がしました。そしてその日は気づいたら眠りに落ちていたようでした。

翌日の朝は昨日にも増して雨足は強まっていました。横浜港に行き交う船が、朝霧のなかに光を灯すように見えました。今朝はベイブリッジもみなとみらいも見えません。しかしそれが却ってこの部屋から見る景色を古い時代に近づけていたようにも思われました。

朝食は新館側にあるパノラミックレストラン「ル・ノルマンディー」にて。どこかベランダを連想させるような開放感のあるレストランです。そういえばこのホテルの本館の屋上には、かつてテラスレストランがあったとのこと。往時を想像しながら、今日はシンプルな洋朝食を頂くことにしましょう。プレーンオムレツとベーコン。自家製のジャムをつけたバターロール。フレッシュオレンジジュースとホットコーヒー。スタッフも一様にとても丁寧であり、港を眺めながら、穏やかな朝の食事の時間でした。雨はずっと止みませんでしたが、少しだけ雲が薄くなり、部分的に明るくなっていました。

朝食を済ませてからしばらく部屋でゆっくりと読書などしながら過ごし、昼前くらいにこのクラシカルなホテルをチェックアウト。

As time goes by…という言葉が浮かびます。関東大震災という未曾有の災害とその復興、第二次世界大戦の空襲と戦後の接収、関内牧場と揶揄されるほどに荒れた土地から高度経済成長を通じて横浜の街は発展。平成不況、そして新型コロナウイルス感染拡大による社会不安…このホテルはそのすべてをこの地で見守ってきたのでしょう。このホテルを守ってきた人たち、そしてこのホテルを愛した人たち。その想いを引き継ぎながら、様々な困難な状況から、不死鳥のように甦ってきたこの街とこのホテルの歴史。それに触れると不思議な安心感があるような気がしてくるものです。どんなに大変なことに直面してもきっと最後はなんとかなる。楽観的にすぎることは慎むべきですが、そのような希望を想起することは決して悪いことではないはずです。

この魅力にまたふたりで触れに来よう。そのような想いを持ちながらこの素敵なホテルをあとにしました。我々が再びここを訪れたときにも、変わらない昔ながらの異国情緒を空気に漂わせながら、そのときの「いま」を生きる我々をあたたかく迎えてくれるはずです。

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