高松に泊まることになった。思いがけず機会を得た初めての香川県の滞在。
せっかくだから瀬戸内海を感じられるような場所に泊まりたいと思っていたのでした。
直島とか豊島とか、小豆島とか、世界の観光客にも大変人気の高い芸術の島にもホテルはあります。でも、人気や知名度の高いところをなるべく避けたい天邪鬼の私はもう少し違う場所を求めていたのでした。そして目に入ってきた屋島のオーベルジュ。屋島といえば源平合戦か太三郎狸か…そんなイメージがあった私にとっては意外とも思える組み合わせ。そんなところに興味を惹かれてそれほど深く考えずに予約を入れたのでした。(それに天邪鬼的には「うどん県」に行って、あえてうどんを食べない人間がいてもいいはずだ)
晴れの日。穏やかな気温。私が飛行機に高松に降り立ったとき、あまりにも理想的な条件が揃っていたのです。タクシーで「オーベルジュ・ドゥ・オオイシ」と言うと、「ああ、あの海のところですね」と即答。地元でもよく知られているのかもしれません。
自転車に乗って海岸を走る子どもたち。独特の形の山の麓の穏やかな街並み。その細い道の奥に今日の宿がありました。
白亜のモダンな雰囲気の外観。そのまま部屋に案内されて驚きました。とにかく広いなかに必要最小限のものしか置いていないのです。屋上とリビングの前にテラス。ただただ天井が高くて、窓を開くと一面には瀬戸内海の絶景。そう必要最小限。しかしただ広いだけというわけではない。充足感がある。センスの良さを感じます。こんな贅沢な空間の使い方は都市部ではウルトララグジュアリーホテルであっても不可能でしょう。
ただひたすらに海を眺めて夕食を待ちます。簡単に今日持ち込んだ仕事を片付けたら本でも読んで過ごそうかと思っていましたが、結局それすらしませんでした。こんな穏やかで美しい永遠のような海を前にして、「なにもしない」以外に何をすることがありましょう。
だんだんと海の向こうに落ちていく太陽。西向きのリビングルームの配置はまったくもって正しいと思うのです。ソファに腰かけて大きな窓の向こうの晩夏の夕暮れ。いや、我慢できなくて、外に出ました。魚釣りをしている(おそらく地元の)少年たちの楽しそうな声。穏やかな夕凪。車の音もまったく聞こえません。ため息がでるほどに美しい景色でした。
あたりはすっかり暗くなって夕食のとき。山側にあるレストラン棟まで歩きます。
部屋でゆっくり海を眺めてもらって、どうせ外は暗くなっちゃうんだから、こっちでは食事をメインに楽しんでほしいというコンセプトなんですよ〜。
とても明るく楽しい「マダム」を中心として、とにかく人懐っこいスタッフが料理と会話を運んできてくれました。瀬戸内海を眺めてそのものずばりひとりで黄昏ていた私にはとてもあたたかくて嬉しく感じられました。そのあたたかさをそのまま反映したような料理が続きます。まずはにんじんのムース。素材の甘みが生きていて、この土地のあたたかさを思わせます(じつはそのあとフォアグラも出てきたのですが、うっかり写真を撮り忘れてしまいました…カップルやファミリーのゲスト相手には適度な距離感でもって、そして話好きだがひとりステイの私にはスタッフがつきっきりで色々な話をしてくれました。もちろん会話しつつも料理もしっかり楽しむことができました。絶妙な距離感です!)
おおきな岩牡蠣。たまねぎの苦手な私に配慮してブランブールソースで仕立ててくれました。牡蠣もソースもひたすらに濃厚な味わい。こんなに味のしっかりした牡蠣を食べるのはいつ以来でしょう。素材そのものを活かして必要以上に手を加えないという方向性もありえますが、ここは「焼き」と「ソース」にこだわった古典的なフランス料理らしさを目指していると言います。しかし同時にきどらない良さもあります。ひとえにフランス料理といっても、東京の状況だけを考えても、世界都市であるがゆえに素材も調理法も世界各地のものが交錯していて、古典からヌーヴェル、回帰志向から和製から新進気鋭に至るまでさまざまな味わいが楽しめるいまとなっては、香川県の小さなオーベルジュであること以上の新鮮さはないかもしれません。でも、このアットホームな雰囲気。昔ながらの調理法へのこだわり。なにか「フランス料理」という枠組みを外しても残る「たのしく美味しい料理」がここにあります。それだけでもここを訪れる価値があり、ここにしかないものに出会えることもまた確かです。
メインディッシュはいくつかの選択肢の中からひとつを選びます。さんざん迷って、最終的に鹿と黒鮑まで絞り込みましたが、最終的には、はじめての来訪ということもあり、スペシャリテである黒鮑を選びました。鹿肉も自信の一品とのことで是非とも次回は食べてみたいものです。再び「マダム」がやってきてこの黒鮑は小豆島で取れたものだと言います。+1000円かかりますが、その価値は十分にある味わい深さでした。炭火焼きの鮑。さっきまで眺めていた夕凪の瀬戸内海を抜けていった穏やかな風がふと思い浮かびました。添えられたトランペット茸や黒インゲンやかぼちゃの相乗効果で満足のいく一皿だったと思います。
個人的に嬉しかったのはフロマージュへのこだわりとそのおいしさ。自家製のはっさくのジャムなども合わせてだしてもらって、3年熟成のコンテや、ウォッシュ、特筆すべきは刺激的な青カビ。メインディッシュに比肩する感動でした。
デザートはワゴンサービス。こういうところも古典的なフランス料理っぽさがあって好ましいです。フルーツのムースやプリンも丁寧でやさしい味わいでしたが、もう数十年にわたって焼き続けているという渾身のチーズケーキは特に感動的。先ほどのフロマージュや料理に合わせるソースもそうですが、このオーベルジュの食における通奏低音には乳製品へのこだわりがあるような気がするのです。なおこの際だから付け加えておけば、自家製のアイスクリームもとてもとても美味しかったです。
部屋での特別な時間の流れと食事の美味しさ、そしてスタッフのホスピタリティの高さ。私のなかで宿泊体験の高さを測る3要素どれをとっても素晴らしかった…そのことを「マダム」と愉快なスタッフの人たちに伝えて、そろそろ部屋に戻りましょう。いや、とても、楽しい時間でした。
部屋に戻ると…静かな夜でした。楽しい夕食との綺麗なコントラスト。美しい夜空。都会の喧騒も好きだけれど、こうして自然の豊かな場所で静かに休むのもまたなんとも良いものです。
早朝に目が覚めたら目の前の海岸を少し散歩しました。あまりにも朝の匂い立つ瀬戸内海と晩夏の太陽が気持ちよかったのです。波の音のなか、しばらくすると朝食が部屋に運ばれてきました。
部屋の中でもいいですし、天気がいいので外もとてもおすすめです。
私は考えるまでもなく外で朝食を取ること決めました。芝生の緑と瀬戸内海や空の青。遠くに大小の船。鳥のさえずりも聞こえてきてとても平和な気分。こんな心地よい朝が迎えられるなんて!
オレンジジュースとコーヒーと、そして焼きたてのパン。ジャムやバターも自家製。とてもシンプルなのですが、もうこれ以上足しても引いても欲しくない絶妙な内容です。なによりもこの穏やかな朝の海とこの朝食の組み合わせのめぐりあう幸福。私はなんだかこの世ではない場所にいるような気がしてきました。あまりにも私の普段生きている現実から離れた場所。そんな不思議な場所で朝の美食。もし辛いことがあって、現実を忘れたくなったら、きっとここに戻ってこよう。忘れないように強調しておきましょう。
チェックアウトしてから所用のために大阪に向かいます。今日は時間に余裕があるので船で大阪に向かうために徳島から南海フェリーで和歌山へ。列車でスピーディーに向かう手も勿論ありましたが、なんだかもっと海を感じていたかったのです。結果的にこの旅程は正解でした。徐々に遠ざかっていく四国の大地。昨夜から今日にかけてのとても幸せな数多くの出会いが蘇ってきました。今朝淡いブルーを見せていた空の青さが一段と深く見えます。もう秋なのですね。