想定していたよりもやることが多くて、結局、夕方の5時近くになってしまいました。六本木通りには混沌とした車の列ができていて、乾いた寒気の中に無数の白い排気を放出していました。雪が雨に混じった曖昧な天気のなか、私はハンドルを切って、屋内のループラインをホテルのエントランスへと進んでいきます。
今日は特に冷えますね。そんなことをベルのスタッフに話しつつ、鍵と荷物を預けます。そのままグランドクラブへと案内されるなかで、ふと横を見ると、少し前まで華やかにロビーを彩っていたクリスマスや正月の飾り付けはすっかり撤去されて、いつものすっきりとした雰囲気に戻っていました。
通常運転のグランドハイアット東京。外国からと思われる宿泊客は以前よりも増えたように思いますが、それにしても今日は人が少ないように思えました。それなりに人は歩いていますが、床の石材に靴音が聞こえる程度には静かなロビーでした。もう何度となくこの(扉が閉まるまでの時間がやたらに早く、ときどき乗り遅れる人がいるほどにせっかちに動くため、なんとなく、ここ六本木の雑踏の雰囲気に似ている気がする)エレベーターに乗っていますが、それでもチェックインのときの気分というのはいつも気分が高まるものです。
カクテルタイムではありましたが、ラウンジは想像以上に人が少なく、落ち着いていました。
おかえりなさいませ。
顔なじみのスタッフにそう声をかけられるとなんだかほっとします。寒い冬の夕方というのはどこか人恋しいものですが、なんだかここに帰ってくる理由があるという想いになります。どこかに「帰る」ために、どこかに宿泊する。ふと考えてみれば、東京に住んでいて、東京に泊まるというのは、私にとって当たり前になってしまっているけれど、多くの人にとっては不思議なことでしょう。もちろん寝泊まりする場所を変えてみるのは単にホテルという空間が好きだったり、日常生活を異化させていろいろなことをしたり、そういうなんらかの動機を見つけることができるような気がします。しかし最近、私は都内のホテルに限って言えば、どこでも良いわけではないと感じています。
好きな音楽を繰り返し聴いてしまうように、好きなホテルに何度も泊まりたくなる。それは好きな場所に対して自分の人生の1ページやそこで考えたり、感じたりしていたことを投影するからなのかもしれません。
部屋までエスコートされることも最近はなくなりましたが、逆にそれが「いつもの」スタイルのような気がしています。そしていつもながらに思うことはこのスタンダードルームの完成度の高さ。多くの人に熱を込めて語っている気がするのですが、ここは本当に広すぎず狭すぎない快適性と質の高い家具が備え付けられた客室だと思います。特にひとりで過ごすときなどに、この部屋ほど心地よく過ごせる空間というのは他に数えるほどしか私は知りません。
ベッドに横になったとき、ソファに腰掛けて外の景色を眺めるとき、バスタイムを過ごすとき、ひとつひとつのなにげない瞬間にそれを感じられる…おそらく私が都内で最も宿泊しているホテルの部屋だと思いますが、それにはそうした無数の理由があるように思うのです。
今日の夜に人と会う予定がある。その前に軽い夕食でも取ろうかと思い、6階のレストランが並んでいるエリアを歩いていると、和食「旬房」のメニューが目に入りました。なにかしら小丼とか蕎麦とか、軽いものでも食べたい気持ちになっていると、ガラス窓越しに馴染みのスタッフと目が合いました。にこやかな表情で挨拶を交わし、なんだかふたたびあたたかい気持ちになりました。好きなホテルだからこそ何度も足を運び、足を運ぶからこそ顔見知りの人が増えて、ますますたいせつな場所になる。そのような恵まれた場所がここにある幸せを感じます。
食後にもまだ少し時間があったので、ふらりと六本木の夜風に当たりに外に出ました。寒さのせいかみぞれのせいか、いつもより人通りの少ないけやき坂。ぼんやりとした寒空を焦すように煌々とした東京タワーの赤が目に写りました。イルミネーションとあいまってどこか神秘的な夜。良い夜です。
オークドアバーでよくモクテルを飲んでいました。でもこうしてひとり人を待っているのは久しぶりのことです。あたりを見回してみると今日は外国からのお客さんも多いようです。ときどき豪快な多国籍の笑い声が店内のあちらこちらから聞こえてきました。
しばらくして今日会う約束をしていた方が店内に入ってきました。この店内の様子にすっと馴染むような無国籍的な開放性と、他方でどこか別世界にいるような雰囲気を併せ持つ素敵な方という印象が残っています。目的地の前にホテルがあるのではなく、ホテルがあるから目的地が決まる。その考え方に共鳴してくれるような方とはやはり話が尽きなくなるものです。もちろんその方の知識や経験の豊かさを私がひそかに尊敬していることもあり、あれこれと話題が展開したためでもあります。時計を気にすることもないままに話していたらこのバーは早くも閉店時間が近づいていました。
またいつかの再会を期して、私はふたたび部屋に戻りました。
とても満ち足りた時間であったことを振り返りつつ、私はさっきよりもビルの明かりが減った東京の夜を眺めていました。
外は寒くもとてもあたたかい気持ちになった夜を過ごし、私は早朝に目を覚ましました。東の空には力強くのぼってくる太陽。昨日の曇り空が嘘のようにすっきりとした朝の青空でした。
そうそう、こうして早朝に外を眺めるのがここに泊まるときの習慣だったのだ。夏であれば、夜の賑わいが嘘のように静まり返った六本木の朝を散歩する。冬であれば、朝早くからやっているNagomiでひと泳ぎする。でも今日は私は泳ぐことなく、ベッドの上で、脈絡なく持ってきた本を読んでいました。起き抜けのムードが街全体の漂う午前7時。私は朝食を取りに再びラウンジへと向かいます。今日は持ち込んだ仕事を片付けてしまおう。そんな1日の流れをぼんやりイメージする午前7時半。
午後3時を少し過ぎたくらいにチェックアウト。
六本木ヒルズの高層ビルと変化を続けるこの周辺の街並みを眺めながら、いつものような乾いた冷たさを取り戻した東京の空の下へと車を走らせます。
交わす言葉のひとつひとつが妙に心に残る滞在でした。