首都高速は今日も決まっていたかのように渋滞。諦めにも似たような表情を浮かべた人たちの車列のなかで、私もハンドルを握っていました。些細なことですれ違い、ああまたか、そう話し合っているうちに元に戻る不思議な関係。はじめて彼女に出会った頃の、純粋で、時に苦しく、時に甘い、あの激烈な感情が推移して、お互いが穏やかにいることこそが幸せと感じるようになったのはいつでしょうか。いつのまにか敬語で話す関係ではなくなり、いつのまにかお互いを愛称で呼ぶようになり、そして顔の表情でなんとなく考えていることがわかるようになって…それでも彼女の考え方がよくわからないときが私にもよくあります。それが私に立ち入れる領域であるのかさえわかりませんが、そんな彼女の一面をみたとき、私の表情にはわかりやすく戸惑いが浮かんでいることでしょう。
誰しもが、時にそういう「行く当てのない」想いを抱える。この日は、私にとっても、彼女にとってもそういう想いが心のなかにあったのかもしれません。しかしふたりで行く場所は決まっていました。
グランドハイアット東京。バレーパーキングで車を預けたらさっそくラウンジへ。乾いた空気のせいなのか今日は遠くまで景色がくっきり見えます。ティータイムのブッフェが復活しました。そのように馴染みのスタッフが教えてくれました。去年も何度となくこのホテルに泊まりましたが、思えばグランドクラブでのブッフェは彼女にとって初めてのこと。彼女との出逢いに先立って私はここに何度も泊まっていたのだと改めて思い、その記憶の断片が自由に浮かんできます。
チェックインは済ませたものの部屋の準備はまだ整っていない。そして私たちはふたりが出逢ったオークドアにランチに向かいました。フルーツスカッシュとオークドアバーガーの組み合わせ。噛み締めるごとにジュワッと牛肉の美味しさが溢れ出て、チェダーチーズやフライドオニオンと共にオークの香ばしさが立ってくる。そこにベリーやライムの甘酸っぱい香りと炭酸の爽やかさを流し込む。いかにもグランドハイアットらしいランチタイム。
お互いが抱える「行く当てのない」想いは結局解消できなかったけれど、少なくとも、楽しい食事の時間を過ごすことができたのでした。しばらく六本木ヒルズを散策。クリスマスの頃に来たときと比べると人が少なく、なんだか祭りのあとのような寂しさがそこにはありました。
しばらくしてグランドクラブのカクテルタイム。窓の下にはクリスマスの煌めきを夢の余韻のようにして光るけやき坂のイルミネーション。悩んでいても仕方がない。彼女はスパークリングワインを、私はバージンモヒートを。通りを渡ったあたりの建物はどんどん閉店していますが、再開発でも予定されているのでしょうか…そしてこの場所から見える景色もこれからも変わっていくのでしょうか。
今日の六本木の夜はなぜかNowhere。私たちの心境を映しているかのような都会の孤独。冬の夜はなんだか切ないね、と彼女が無表情につぶやきました。
過去には帰りたくても帰れない。それでもやり直せるならどんな生き方ができるのだろう。そんな話題になって、私は自分の過去を振り返ってみました。どんな時点に戻ったとしても、結局、私は私なのだから今のようになっているだろう。諦めとも開き直りとも違う。あるがままの自分からは逃げられないものなのだと思うのです。だからこれまでたどってきた道筋を失敗だと思うことはない。失敗のように思えるその時点での選択もまた、他の選択肢ではありえなかった自分自身なのだから。
ようやく夜になって今日の部屋に行きました。ホテルの最上階に位置するクラブプレミアムツイン。スリットのような窓と屋根の上の坪庭が印象的な横長の部屋。スタンダードカテゴリーでは、おそらくこのホテルで最も珍しい部屋と言えるでしょう。なんだかここは隠れ家的というか秘密の部屋のような雰囲気があり、六本木の喧騒から最も遠い場所のような心地がします。
扉を開いて坪庭に出れば、ビルの通気口から吹き上がる水蒸気の音や、道路を走りゆく車の音が絶え間なく聞こえてきて、眠らない街にいるリアリティを感じることができました。
ああ、これが東京の冬の夜。とても乾いた風。どこかの店から運ばれてくる料理の香りに、排気ガスの匂いがまざっていて、不協和であるようで、お互いが邪魔せずに、嗅覚をいつまでも飽きさせない。思い浮かべていた人生に対する思索はこの賑やかな音と匂いに雲散してしまう。大自然のなかで人は自らの小ささを感じて俗世の雑事から解放されるというけれど、私は大都会のなかにそれを見つけます。この混沌とした冬の空気に思考を鈍らせてしまうのです。
体がすっかり冷えてしまいました。
芯からあたたまるバスタイムのあとで、部屋から東京タワーを眺めていました。細長い窓の向こうには満天の星のようなビルの明かり。リッツカールトンからもパークハイアットからも見えなくなってしまいましたが、ここからはまだ見えます。
さっきの話…自分を卑下する必要もないし、比較する必要もないよ。そう彼女に語りながら、それは他ならぬ自分にかけていた言葉だったのでした。適当になにげなく答えたようにみせて、じつは心の奥底で熱くそう思っていたのでした。
寝るために部屋の明かりを落とすと、ビルの隙間を抜けていく風の音が夜通し聞こえていました。
現実はそう簡単に動くものではないし、引き続き迷いの中で生きていくことに変わりはないのでしょう。しかしそれでも今日の六本木の空は青い。シルバーの高層ビルが部屋の坪庭の向こうにきらきらと太陽の光を浴びていました。今日は少し早いチェックアウト。新しいホテルもよいけれど、やはり泊まり慣れたホテルというのはその時々の心のあり方に寄り添ってくれるような気がします。前に泊まったときもそんなことを思っていたっけ。バレースタッフから鍵を受け取って、薄暗いパーキングから昼過ぎの東京の街に飛び出します。次に来たときに今回の滞在を思い返すことを楽しみにしながら。